傍線部Aより愛を込めて ~映画の傍線部解釈~

主にひとり映画反省会。人の嫌いなものが好きらしい。

感想「アルジャーノンに花束を」

ついしん、どーかついでがあったらアルジャーノンのことをおもいだしてください。

 

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【あらすじ】

知的障害のあるチャーリーは夜間学校で読み書きの勉強をしながらパン屋で雑用をして暮らしている。ある日夜間学校のキニアン先生から頭をよくする手術を受けないかと誘われ、手術で頭のよくなったネズミのアルジャーノンを紹介される。葛藤の末手術を受けることにしたチャーリーはすぐ頭脳明晰になるが、反面様々なことを理解して苦悩する。


【感想】

言わずと知れた名作の映画なのですが、結末を知っていてもやはりどのバージョンも悲しい。得ていく過程はとても気持ちいいのに、失っていくときの焦燥はいつも辛い。


内容は基本的に原作と変わらず、パン屋に勤めるチャーリーが手術で頭がよくなって周囲の視線に気が付き、そしてまた「バカなチャーリー」に戻っていく。映画では映画でしかできない表現もあると思っていたんだけど、割と実験的な映像が多くてチャーリーの悲哀というより映像美を優先した感が否めない。


その理由は映画ならではのストーリーの改変。何故かチャーリーとキニアン先生のロマンスが中心になって、キニアン先生に振られたチャーリーが謎の映像表現の旅に出かけるところがよくわからない。チャーリーの心象というより、やりたいことをやっただけのような気がした。


そして何よりアルジャーノニア(今作った適当な言葉)にはずせない「うらにわのアルジャーノンの墓」が全くなかったことになっている。これは勝手なアルジャーノニアの妄言なんだけど、この作品で1番大事なシーンは手術で頭がよくなって知的障害に対する偏見を意識したチャーリーの悲哀と、それと対をなす再度バカになっていく自分に怯えるチャーリーなんだよね。その恐ろしい運命に立ち向かっていこうというところで、同じ運命のアルジャーノンが死んでしまう。


映画ではアルジャーノンの運命も再度知的障害者として扱われる恐ろしさも描いているけれど、キニアン先生のロマンスに割いたカットをこっちで使って欲しかった。知能が衰えていくチャーリィの苦悩などをもっと見たかった。そこでヨヨヨとなるのがアルジャーノニアだから(過激発言)。


話は変わるけど、2015年バージョンのテレビドラマ「アルジャーノンに花束を」では現代に即した変更がされていて、元に戻ったチャーリィは1人で姿を消すのではなく信頼出来る仲間を得て幸せに暮らすというものになっている。この話のかなり大事なところはやはり最終的にチャーリィが孤独になり、アルジャーノンと寂しくどこかへ消えていくというところにあると思う。だから「ついしん、どーかついでがあったら」になるのであって。これは時代が変わったということなのか、視聴者に配慮したのか、それとも大人の都合なのか……なんにせよ、斬新すぎて「あ、アリなのかな」とは思った。途中から「はい原作無視ルート入りましたよ」スイッチが入るとなんでも受け入れられる。元気があればなんでも出来る。


そういうわけでアルジャーノンのお墓に花を備えに行かなきゃですね。お盆だし、お墓参りに行こう。おしまい。