傍線部Aより愛を込めて ~映画の傍線部解釈~

主にひとり映画反省会。人の嫌いなものが好きらしい。

感想「シェフ 三ツ星フードトラック始めました」

冷蔵庫入るよりよっぽどマシだと思う。

 

シェフ 三ツ星フードトラック始めました (字幕版)

シェフ 三ツ星フードトラック始めました (字幕版)

  • 発売日: 2015/05/13
  • メディア: Prime Video
 


【あらすじ】

雇われシェフのカールはネットの評論家とのトラブルでレストランをクビになる。全てをなくしてマイアミに来たカールはフードトラックを購入し、元同僚のマーヴィンと息子のパーシーと共にフードトラックでキューバサンドを売り歩く旅に出る。

 

【感想】

なんか評判なのでずっと見たかった映画。思いのほか軽い感じの映画で気軽に見ることができた。それに「ネットでの炎上」「父子映画」「SNSマーケティング」など自分の好きな要素がたくさんあって面白かった。もっと早く見ればよかった。


この映画のポイントは、序盤のネット炎上のパートがきちんと後半の伏線になってると言うところだと思った。評論家に噛みつき炎上しているのだが、その実際は非難の的というより「おもしろおもちゃおじさん」として消費されたイメージに近い。あんなんYouTubeにアップされた日には現代日本だったら一発でフリー素材として活用されそう。


そんで職を無くしたカールはいろいろあって心機一転フードワゴンでキューバサンドを売りながら再起を図るのだけど、ここから先は完全にサクセスストーリーで気持ちがよすぎる。気持ち良すぎてちょっと不安になる。「世の中そう上手くいくかよ」という気分にもなるけど、前半で盛大に炎上したことが伏線になっていて「炎上で注目を浴びる→そこに実力が公開されて良い宣伝になる」というコンボが効いている。無駄に炎上していなかったのがよかった。


とはいえ、職場を蹴って着いてきてくれる超有能な後輩と宣伝能力がチートな息子とめちゃくちゃキレイな元妻に何故か諸々理解のある元妻の元旦那とかトントンすぎる物語に物足りなさがあるのは否めない。これは物語を楽しむ映画ではなく、ただチートフードワゴンとメシを楽しむ映画なのだ。


邦画のメシ映画といえば思いつくのが「南極料理人」とか「深夜食堂」で、どちらもメシ要素に加えてどちらかと言うとしんみりテイストがあった。「かもめ食堂」もそっちサイドに近い。ところがこの映画はしんみりどころか「超ハッピーめでたしめでたし!」というテンションで突っ走る。途中の父子vineで泣けるけど、あれはしんみりとは違う。ハッピーエンドのための繋ぎだ。


とりあえず「ネット炎上」「父子」「メシ」という要素を明るくまとめた感じの映画で、真面目に見たら「こんな空っぽの映画けしからん」と思うかもしれない。しかしこの映画は空っぽでいいのだと思う。空っぽだからこそメシが美味そうに見える。正直飯テロ度は相当高いのでお腹がすいているときには推奨出来ません。出来れば何かを食べながら見たい映画だ。それこそキューバサンドとか。おしまい。

 

感想「さらば、わが愛 覇王別姫」

散ることもまた美しくありたい。

 

 

さらば、わが愛 覇王別姫(字幕版)

さらば、わが愛 覇王別姫(字幕版)

  • 発売日: 2015/11/15
  • メディア: Prime Video
 

 

【あらすじ】

1920年代、娼婦の子供が京劇の養成所に売られる。小豆子と呼ばれた子供は兄貴分の小石頭と共に「覇王別姫」の項羽役と虞姫役を演じるようになる。成長して程蝶衣と段小楼と名乗るようになった彼らは日本軍の占領、中華人民共和国の建国、文化大革命など時代の荒波に飲まれていく。


【感想】

随分間が空いてしまいまして申し訳ない。2020年は生活環境がまた変わって更新が出来るかどうかよくわからないので適当に付き合って貰えたらと思います。


さて、今更ですが2020年最初の感想は「さらばわが愛、覇王別姫」です。この映画、京劇の愛憎劇みたいな話だと聞いていたので勝手に「覇王別姫の舞台に立つ役者達が役を奪い合うメロドラマ」みたいなのを想像していました。メロドラマには違いないのですが、方向性が全然違いましたね。びっくりでした。ごめんなさい。


そんなわけで最初の幼少期のシーンはもう衝撃以外の何物でもありませんでした。「そっか京劇も女役か」とか「見世物小屋か」とか「指が……」とか、衝撃を受けている間にこの映画最大の衝撃の幼少期クライマックスが待っていました。


確かに「同性愛の話だ」とか「時代の激流に翻弄される役者の話だ」とかそういうのも衝撃なのですが、この映画のひとつの山場はやはり小癩子の最期にあると思うのです。出来が悪く逃亡も企てる小癩子と頼りになる先輩の小石頭に虐められる小豆子。ある日「サンザシの飴がけが食べたい、あれを食べると何も怖いものは無い」と脱走した小癩子とそれについて行った小豆子。たまたま売れっ子の役者の舞台を見て感動する二人。小豆子はただ涙を流すだけなんだけど、小癩子は「何度打たれたらあんなに素晴らしい芸ができるのか」と単に芸に泣いているわけではない。結局養成所に戻ると2人を見逃したとして全員が折檻を受けていた。小豆子はそこに飛び込んで「皆は悪くない、逃げた私をぶって下さい」とひどい折檻をを受ける。その様子を見た小癩子は持っていたサンザシの飴がけを口いっぱい頬張る。次のシーンでは、彼は自ら命を絶っていた。


とても象徴的で短いシーンなんだけど、ここの小癩子の心持ちを考えると本当に深い。あそこでサンザシを口いっぱい頬張る小癩子に「稽古や折檻の過酷さに絶望したから」という理由を宛てがうのは薄い気がする。思うに、彼は小豆子を助けたかったのではないだろうか。絶望もあるけど、ここで騒ぎを起こすことで小豆子の折檻を有耶無耶にしようとしたのではないかと考える。あの頬張るシーン、「怖いものはない」と言う言葉が響いてもうそれだけで涙が出る。小癩子よ、安らかに。


それからも辛いシーンが連続する。小豆子が自身の性を完全に倒錯せざるを得ないシーンはわかっていても辛い。「そういうもの」だったのだろうと考える。でも辛い。ある意味吹っ切れたことで彼の芸は素晴らしくなったんだろうけど、大切なものも失ってしまった。何回も叩かれるより辛いことだったろうな。


成長して程蝶衣、段小楼としてスターになってからも辛いシーンは続く。女性として小楼を慕う蝶衣は小楼が菊仙と結婚することがとにかく面白くない。それで関係はこじれるけど、かつての師匠の取り無しで再び舞台に立つことに。しかし時代は第二次大戦後、共産主義の時代がやってきていた。


紆余曲折ありながらも京劇の舞台に立ち続けてきた二人に残酷な仕打ちが次々と降りかかる。「労働者のための京劇」として改革が次々と行われ、かつての名優は古い考えの悪人と認識されてしまう。特に目にかけていた孤児小四が蝶衣を蹴落として虞姫役を得た時に菊仙だけが蝶衣を気にかけていたのは本当にやるせなかった。


そして迎えた文化大革命の日。京劇は人々を堕落させる悪として激しく弾圧される。自己批判を強要された小楼は菊仙の過去や蝶衣の過去について話してしまう。負けずに蝶衣も小楼の過去をぶちまける。そして菊仙に対して小楼は「愛していない」と言ってしまう。このシーンのためにここまでの長い話があったのかというくらいこのクライマックスが凄まじい。京劇に生きるしか無かった二人が自身の人生を否定され、それを公の場で罵られながら発言しなければならないことの残酷さに巻き込まれる菊仙。その後、彼女は言葉もなく自ら命を絶ってしまう。そこにサンザシを口いっぱい頬張って死んで行った小癩子が重なる。京劇のそばにいながら染まることの出来なかった者の末路がリフレインされる。


文革の時代が終わり、久しぶりに公演が行われるということで呼び戻された蝶衣と小楼の小さなリハーサルで幕が降りる。蝶衣は虞姫として、そのまま舞台上で命を絶つ。小楼は咄嗟に「小豆」と蝶衣の昔の名前を呼び、二人のただならぬ因縁を再度観客に示して終劇。こんなん泣くしかない。結局蝶衣は京劇の世界でしか生きることができなくて、それ故に京劇の中の愛する男の前で自己を完結させていく。


さらば、わが愛」は蝶衣から小楼へ、菊仙から小楼へ、そして蝶衣から京劇への愛なのかもしれない。全てに「覇王別姫」の筋が響いてくるのが更に愛おしく、狂おしいほど切ない。3時間があっという間のすごい映画だった。「なんとなく」で見る映画ではなかった。今度は覚悟してもう一度見よう。おしまい。

感想「湯を沸かすほどの熱い愛」

母ちゃんは強い。

 

湯を沸かすほどの熱い愛

湯を沸かすほどの熱い愛

  • 発売日: 2017/04/26
  • メディア: Prime Video
 

 

【あらすじ】

夫が蒸発して娘と二人で暮らす双葉はある日パート先で倒れる。病院で癌であり余命数ヶ月であることを宣告され、双葉は生きているうちにやるべきことをやる決意をする。探偵を使って夫を探し、学校へ行き渋る娘の問題解決に乗り出し、休業中だった銭湯を復活させる。


【感想】

純粋な母ちゃん映画だと思った。ラストのせいでサイコホラーとか言う人もいるけど、母ちゃん成分が濃縮されててそんなのどうでもいいと思った。


この映画には母ちゃんが沢山出てくる。まず宮沢りえのスーパー母ちゃん双葉。次に娘の面倒をみなくなった鮎子の実の母。それからフラフラ息子を育ててしまった拓海の実の母。育児を投げ出しても娘の心配をずっとしていた安澄の実の母。更に娘を産んだことすらなかったことにした双葉の実の母。実際に物語に絡む訳では無いが探偵の亡くなった妻も母を象徴するものだろう。


この中で生きていてまともに「母ちゃん」やってるのが双葉しかいないというのが恐ろしい。というか、映画だからなのかもしれないけど過剰なまでに「母ちゃん」という役割を双葉に背負わせてるの大丈夫なの? と思ってしまった。このご時世母はレリゴーして雪山で氷の城をおっ建てなければならないという不文律があるのに、こんなに「母ちゃん」を描いてしまっていいのか、と見ていて不安になった。


それと引き換え、他の母ちゃんズはなんていうか、それはそれで大丈夫なのか不安になる。鮎子や拓海の母は画面にこそ出てこないけれど、自分の子供を見て見ないふりをしていた感じがぷんぷんする。そしてそれの極みが双葉の実母(?)で、探偵が突き止めた場所で暮らしている老婆はその家のおばあちゃんとして収まっていて、双葉がそこに入る余地はなかった。


この辺で「なんで双葉は血の繋がっていない子供を受け入れたのか」が見えてくる。血の繋がりなど何の意味もないことを双葉は実体験から知っているし、終盤でもその現実をまざまざと見せつけられる。双葉の母ちゃんが本気で双葉を忘れているとは思えない。ただ末期ガンということを知らず「金でもたかりに来たのか」と思ったのかもしれない。それでも「産んだ覚えはない」というのはかなりキツイ。双葉全否定じゃないか。


だから、双葉は自分の存在を認めてくれる存在に飢えていた。その「認められたい」衝動がスーパー母ちゃんを作り出した可能性はある。母ちゃんとして、誰かの心に残りたい。そんなスーパー母ちゃんの背景を考えると悲しくなってくる。


前から「父ちゃん映画は泣けるけど母ちゃん映画は純粋にえがったえがったができないのは何故だろう」と疑問だったけど、この映画を見て何となくその答えが見えてきたきがする。父ちゃんは乗り越えるものだけど、母ちゃんは己のアイデンティティ。だから母ちゃんの物語はそのまま子供の物語にもなる。関係性ではなく、同一化する。だから問題が拗れると面倒くさいことになる。


個人的な話をすると、自分が生まれるときに母親が死にかけたのでかーちゃんから「もしかするとアンタはこの家で育ってなかったかもしれないねー」と今でも言われる。そうすると安澄みたいになっていたのかもしれない。とーちゃんが再婚してその女の人をかーちゃんと思っていたかもしれないし、親戚やとーちゃんの友人の子供のいない夫婦に育てられていたかもしれない(ガチで一瞬そういうムードになったらしい)。


そういうわけで母ちゃんという存在は保護者という枠に収まらずその人のアイデンティティを決定してしまうすげぇ存在なんだと思うのです。もちろんそれは血の繋がりが全てではなく、今作のように育ての母でも変わらない。母ちゃんとは概念。自己同一性の塊なのだ。


最後に、ラストは普通に火葬場から帰ってきて、双葉の愛を受け継いだ者達が双葉を想って愛のように包み込む風呂に入っているところだと解釈した。普通に考えて銭湯の炉ごときで人間をしっかり灰に出来るとは思えないし、あんなところに大好きな母ちゃん押し込められるかと思うとキツイんじゃないかと思うのね。火葬場の炉はまだ人間が入る用だから楽に入っていけるけど、銭湯の釜はどうなんだろう……とか余計なことを考えるからよくないんだろうな。面白い映画だと思いました。この監督の次の映画も見たいと思いました。おしまい。

 

感想「グレイテスト・ショーマン」

イッツショウタイム!

 


【あらすじ】

仕立て屋の息子のP.T.バーナムは妻チャリティと子供たちと一緒に「不思議なもの」を拡大して異形の人や一芸を持った人を集めて「ショービジネス」を開催すると大変な評判になる。しかし成り上がったバーナムをよく思わない上流階級に一泡吹かせようとバーナムは歌姫ジェニーの公演に力を注ぐ。

 

【感想】

映画館で見ればよかった!

音楽最高! ミュージカル万歳!
うおおおおおお!
初っ端からサーカスドン!
華やかな映像!
生かした音楽!
ストーリーなんて知ったことか!
とりあえず歌でなんとなく流していくぜ!
大事な会話も歌にしちゃうぜ!
バーの交渉の歌はかっこいいな!
「this is me」はマジかっこいいな!
空中ブランコのところはすげえな!
思わず「すげぇ」って声出しちゃった!
ラストは本当に大団円でよかったな!
そこの大事なところも歌でやっててよかったな!
はいめでたしめでたし!!!!


そんな映画です。


ただこのブログ書いてる人の「フリークス映画」としての評価はあんまりよくないです。やっぱりこのテーマで「フリークス」を超えるのは難しい。シンプルなんだけど、だからこそアレをベースにするしかないし、だからこそ越えられない。


それも仕方ない話で、この話の主人公はP.T.バーナムであり、フリークスたちじゃない。そしてバーナムは世間の偏見の目と戦っていたのではない。上流階級からの見下された目から戦っていた。だからこの映画の敵はチャリティの父や新聞記者を中心にした「上流階級」になり、次第にバーナムも彼らに近づこうとして似たようなことをしていくという典型的なお話で、最後に反省して大団円みたいに分かりやすいのはとてもいいなぁと思いました。


話が少し変わるけど、「あやし」という古語には「身分が低い」という意味がある。元々「あやし」は「不思議に思う」の意味なんだけど、現代のニュアンスで言うと「は?訳わかんねえし」くらいのもの。当時の文章を書いていた高い身分の貴族たちから見れば、平民など身分の低い者たちは「げっ、意味わかんねえマジひくわー」というようなニュアンスで接していたので「あやし=身分が低い」が生まれた。だから竹取の翁の「あやしがりて寄りてみるに」を「不思議に思って近寄ってみると」と訳すより「ちょ、竹光るとか訳わかんねえしwwwwww」くらいのが「あやし」の意味を的確に捉えられている気がする。意味は大体変わんないのに、なんか違う気がするね。いとあやし。


何が言いたいかと言うと、現代のニュアンスで過去の身分の上下を感じるのはすごくナンセンスだと思うっていうこと。チャリティの父親からするとバーナムも「いとあやし」なものに娘は取られるし、かわいい娘はなんか知らん奴らとつるんでるしで最悪だったろうなあと思う。この仕打ちがバーナムの反骨心を育てたんだろうなとは思う。ここの人間関係はこの映画で外すことはできない大事なものだと思う。現代の感覚で「チャリティの親父最低だな!!」と思うのは簡単だけど、今の感覚で言うならば「私飼い犬のベスと結婚するわ!」みたいなものだろうし、その感じを私たちが共有することはできないんだろうなとは思う。フィリップの両親がアンをどんな目で見ていたか、それを共有できないということはとても良いことなんだろうと思う反面、当時を当時のまま表現することの限界も感じている。クレヨンしんちゃんドラえもんも初期の描かれ方に疑問が投げかけられているけど、そんなん知らんがなでいいと思う。当時のことは当時のことで尊重してやろうよ。未来から目線だよ。


そういうわけでこの映画はフリークス映画というよりバーナムの反骨映画なんですよ。フリークス要素はあくまでもオマケ。というか、真面目にフリークスを描ける時代は終わったのかなと思う。『ダンボ』の実写でもアニメ版のこれでもかと迫害されまくるかわいそうなダンボは一瞬でおわり、成功したものの苦悩みたいなもの(厳密には多分違うけど)が描かれる。


少女椿」の実写版の奴でも「見世物小屋の描写が皆無なのは逃げというよりも勇気ある撤退」と評した。それだけ、このご時世フリークスに関する表現はかなり厳しい。それはフリークスが禁忌という面もあるけれど、フリークスの悲哀を肌感覚で観客が感じ取りにくいから表現側が重きを置かないんじゃないかなぁとは思う。どれだけうまく表現したとしても「残酷ショーだ!」で終わってしまう。だからこの映画でもバーナムを主人公にしてフリークス関係をサイドに押し込めたのは悪くない。逆に真っ向から立ち向かったら、そりゃもう大変よ。血の海よ。


この映画のいい所は「これがやりたっかったんだぜー!ババーン!」でずーっとゴリ押ししまくったところかな。ミュージカルシーンはどれも面白いし、バーのシーンは最高。ああ、映画館で見ればよかった! おしまい。

 

感想「SING」

ラストはいいんだよ。

 


【あらすじ】

潰れかけの劇場の支配人バスタ・ムーンは起死回生の企画として歌のコンテストを実施することにする。賞金を目当てに冴えない日常を繰り広げるメンバーが集結するが、賞金は架空のもので夢見ていた一同は落胆するも「コンテスト」を成功させようとする。


【感想】

いや、いいんだよ。歌は文句ないんだよ。ラストの盛り上がりはやばいんだよ。だけど、だけど、もうちょっと何とかならんのかっていうのが正直な感想。


※以下クソ酷評(しかも長い)なので辛い方はお戻りください。


いや、歌はいいんだよ。ラスト最高だと思うけどさ。


一時期「シン・ゴジラには無駄に足を引っ張る無能がいない」という話があったけど、おそらくこの作品は「無駄に足を引っ張る無能」だらけの作品なんだと思う。それが「ズートピア」との違い。ズートピアは事件に必然性があるけど、この作品には「必然性」が見当たらない。行き当たりばったりだけどなんか頑張った、みたいな印象。ラストはいいんだけどさ。


まず支配人のコアラのキャラが最後までよくわからなかった。トカゲのおばあちゃんとの関係もよくわからないし、おばあちゃんの足の引っ張りはもちろんコアラのやってることが本当に行き当たりばったりで辛い。ブロガーが芸術家とかアーティストとか名乗り始めたみたいな不安になる迷走感がある。ラストはいいんだよ。


それに各人の問題も見ていて胸糞なものばかり。ゴリラはモロに人種差別、貧困問題だしブタは女性蔑視だしハリネズミデートDVだしネズミとゾウは何らかの精神的疾患を感じさせる。いや、それらの問題を取り上げるのはいいんだよ。だけど、落とすだけ落として中盤でひとつも盛り上がらないのは如何なものか。歌がすごいと聞いていたのに中盤の空洞は頂けない。ラストはいいんだよ。


個人的にイルミネーションのギャグが好きじゃないだけかもしれないけど、ギャグに必然性を感じないのよ。話の流れで「フフっ」となるのではなく、ギャグをやりたくて話をギャグに寄せてる感じ。ラストがやりたいから過程を無理矢理悲惨にした、みたいな。


コアラがクズという評を見るけど、このコアラのクズというかキャラに必然性が見られないんだよね。洗車シーンもギャグのためにやってる感じだし、話に一貫性を感じない。劇場を潰したくなかったらもっとやるべきことたくさんあるだろ……という感じ。


そんでこれも他の評に多かったけど、ネズミのキャラ設定が甘い。何故彼が暴言を吐くのかの理由がわかるシーンが少ない。ズートピアはゾウのアイスクリーム店で表現していたところだと思うんだけど、それが明示されないからモヤモヤする。


ゴリラパートは完全に「天使にラブソングを2」で辛くなった。基本的にコミカルなシーンがない。辛い。それ以上に辛いのがヤマアラシパート。「失恋」じゃねえよ彼氏がデートDVモラハラ野郎だよ。学生相談室とかだったら全力でサポートしないとダメな案件じゃないですか。ブタの育児パートは比較的心が安らぐシーン。ゾウは完全に本人の問題なので辛いシーンは特にない。


そんで散々言われてるんだけどネズミのキャラが本当に迷子で困った。小さくて虐められるシーンが何度かあればわからないでもないんだけど、そういうのが特に見当たらないのが辛い。ゾウとの比較キャラなんだろうけど、ただのうだうだ言いまくる不快なオッサンになっている。彼の存在意義は何だろうともう一度映画を見たんだけど、「俺は本物しか認めねえ」という彼がゾウの歌声を聞いて震えるシーン。これのために彼がいたのかと思うと悲しくなってくる。


唯一よかったのが「吹き替え声優」というのも皮肉な話。内村光良は役者経験も豊富だし、役柄によくあっていたと思う(クズという意味ではない)。ゴリラがスキマスイッチ大橋卓弥ハリネズミ長澤まさみ、ブタは坂本真綾でネズミは山寺宏一。そしてゾウがMISIA。本業が歌手の方々は演技の面に不安はあったけど、キャラクター的に不安を抱えている役だったのでそれがいい効果を出していたと思う。MISIAのボソボソした声が歌のシーンでぶわぁーっとなるところは最高。そう、ラストは最高なのである。


もうさ、最後のシーンだけ延々とやってりゃよくね? ってくらい序盤~中盤のシーンにダメダメ感が漂っている。ダメダメな僕らが頑張ったカタルシスが欲しいのは分かるけど、ラストでぶち上げるだけの伏線がほぼ存在しない。そうなるとただ歌が上手いだけじゃんってなる。それは単にキャラの掘り下げが足りないだけだと思うんだよね。比較的ブタパートは育児に追われる冴えない主婦が最後はダンスも出来てるよっていうわかりやすい筋は見えた。でもゴリラパートはぶっちゃけ相当しんどいしハリネズミパートはモラハラ彼氏にビシッとした鉄槌がないのでカタルシスが減る。ネズミはまず葛藤がないしゾウはもう最後歌えばいいよって参加賞じゃないんだから。最後感動したのはゾウが歌ったからじゃない、MISIAの歌が最高だったからや。映画に感動してねえんだよ。


こんだけ豚みたいにブーブー言ってるんだけど、おそらくイルミネーションのアニメと相性がかなり悪いんだと思う。ミニオンズの何がいいのかよくわからない。一応『月泥棒』を見れば彼らの魅力がわかるのかと思ったけど、全然わからなかった。鶴瓶の声が和むわぁとかそんな印象しかなかった。なんだろう、どうしてこんなにイルミネーションと合わないんだろう。その理由が知りたいわ。そういうわけで今後もイルミネーションの映画を見れたら見てみようと思う。そんな映画鑑賞もありかなぁ。おしまい。