傍線部Aより愛を込めて ~映画の傍線部解釈~

主にひとり映画反省会。人の嫌いなものが好きらしい。

感想「湯を沸かすほどの熱い愛」

母ちゃんは強い。

 

湯を沸かすほどの熱い愛

湯を沸かすほどの熱い愛

  • 発売日: 2017/04/26
  • メディア: Prime Video
 

 

【あらすじ】

夫が蒸発して娘と二人で暮らす双葉はある日パート先で倒れる。病院で癌であり余命数ヶ月であることを宣告され、双葉は生きているうちにやるべきことをやる決意をする。探偵を使って夫を探し、学校へ行き渋る娘の問題解決に乗り出し、休業中だった銭湯を復活させる。


【感想】

純粋な母ちゃん映画だと思った。ラストのせいでサイコホラーとか言う人もいるけど、母ちゃん成分が濃縮されててそんなのどうでもいいと思った。


この映画には母ちゃんが沢山出てくる。まず宮沢りえのスーパー母ちゃん双葉。次に娘の面倒をみなくなった鮎子の実の母。それからフラフラ息子を育ててしまった拓海の実の母。育児を投げ出しても娘の心配をずっとしていた安澄の実の母。更に娘を産んだことすらなかったことにした双葉の実の母。実際に物語に絡む訳では無いが探偵の亡くなった妻も母を象徴するものだろう。


この中で生きていてまともに「母ちゃん」やってるのが双葉しかいないというのが恐ろしい。というか、映画だからなのかもしれないけど過剰なまでに「母ちゃん」という役割を双葉に背負わせてるの大丈夫なの? と思ってしまった。このご時世母はレリゴーして雪山で氷の城をおっ建てなければならないという不文律があるのに、こんなに「母ちゃん」を描いてしまっていいのか、と見ていて不安になった。


それと引き換え、他の母ちゃんズはなんていうか、それはそれで大丈夫なのか不安になる。鮎子や拓海の母は画面にこそ出てこないけれど、自分の子供を見て見ないふりをしていた感じがぷんぷんする。そしてそれの極みが双葉の実母(?)で、探偵が突き止めた場所で暮らしている老婆はその家のおばあちゃんとして収まっていて、双葉がそこに入る余地はなかった。


この辺で「なんで双葉は血の繋がっていない子供を受け入れたのか」が見えてくる。血の繋がりなど何の意味もないことを双葉は実体験から知っているし、終盤でもその現実をまざまざと見せつけられる。双葉の母ちゃんが本気で双葉を忘れているとは思えない。ただ末期ガンということを知らず「金でもたかりに来たのか」と思ったのかもしれない。それでも「産んだ覚えはない」というのはかなりキツイ。双葉全否定じゃないか。


だから、双葉は自分の存在を認めてくれる存在に飢えていた。その「認められたい」衝動がスーパー母ちゃんを作り出した可能性はある。母ちゃんとして、誰かの心に残りたい。そんなスーパー母ちゃんの背景を考えると悲しくなってくる。


前から「父ちゃん映画は泣けるけど母ちゃん映画は純粋にえがったえがったができないのは何故だろう」と疑問だったけど、この映画を見て何となくその答えが見えてきたきがする。父ちゃんは乗り越えるものだけど、母ちゃんは己のアイデンティティ。だから母ちゃんの物語はそのまま子供の物語にもなる。関係性ではなく、同一化する。だから問題が拗れると面倒くさいことになる。


個人的な話をすると、自分が生まれるときに母親が死にかけたのでかーちゃんから「もしかするとアンタはこの家で育ってなかったかもしれないねー」と今でも言われる。そうすると安澄みたいになっていたのかもしれない。とーちゃんが再婚してその女の人をかーちゃんと思っていたかもしれないし、親戚やとーちゃんの友人の子供のいない夫婦に育てられていたかもしれない(ガチで一瞬そういうムードになったらしい)。


そういうわけで母ちゃんという存在は保護者という枠に収まらずその人のアイデンティティを決定してしまうすげぇ存在なんだと思うのです。もちろんそれは血の繋がりが全てではなく、今作のように育ての母でも変わらない。母ちゃんとは概念。自己同一性の塊なのだ。


最後に、ラストは普通に火葬場から帰ってきて、双葉の愛を受け継いだ者達が双葉を想って愛のように包み込む風呂に入っているところだと解釈した。普通に考えて銭湯の炉ごときで人間をしっかり灰に出来るとは思えないし、あんなところに大好きな母ちゃん押し込められるかと思うとキツイんじゃないかと思うのね。火葬場の炉はまだ人間が入る用だから楽に入っていけるけど、銭湯の釜はどうなんだろう……とか余計なことを考えるからよくないんだろうな。面白い映画だと思いました。この監督の次の映画も見たいと思いました。おしまい。

 

感想「グレイテスト・ショーマン」

イッツショウタイム!

 


【あらすじ】

仕立て屋の息子のP.T.バーナムは妻チャリティと子供たちと一緒に「不思議なもの」を拡大して異形の人や一芸を持った人を集めて「ショービジネス」を開催すると大変な評判になる。しかし成り上がったバーナムをよく思わない上流階級に一泡吹かせようとバーナムは歌姫ジェニーの公演に力を注ぐ。

 

【感想】

映画館で見ればよかった!

音楽最高! ミュージカル万歳!
うおおおおおお!
初っ端からサーカスドン!
華やかな映像!
生かした音楽!
ストーリーなんて知ったことか!
とりあえず歌でなんとなく流していくぜ!
大事な会話も歌にしちゃうぜ!
バーの交渉の歌はかっこいいな!
「this is me」はマジかっこいいな!
空中ブランコのところはすげえな!
思わず「すげぇ」って声出しちゃった!
ラストは本当に大団円でよかったな!
そこの大事なところも歌でやっててよかったな!
はいめでたしめでたし!!!!


そんな映画です。


ただこのブログ書いてる人の「フリークス映画」としての評価はあんまりよくないです。やっぱりこのテーマで「フリークス」を超えるのは難しい。シンプルなんだけど、だからこそアレをベースにするしかないし、だからこそ越えられない。


それも仕方ない話で、この話の主人公はP.T.バーナムであり、フリークスたちじゃない。そしてバーナムは世間の偏見の目と戦っていたのではない。上流階級からの見下された目から戦っていた。だからこの映画の敵はチャリティの父や新聞記者を中心にした「上流階級」になり、次第にバーナムも彼らに近づこうとして似たようなことをしていくという典型的なお話で、最後に反省して大団円みたいに分かりやすいのはとてもいいなぁと思いました。


話が少し変わるけど、「あやし」という古語には「身分が低い」という意味がある。元々「あやし」は「不思議に思う」の意味なんだけど、現代のニュアンスで言うと「は?訳わかんねえし」くらいのもの。当時の文章を書いていた高い身分の貴族たちから見れば、平民など身分の低い者たちは「げっ、意味わかんねえマジひくわー」というようなニュアンスで接していたので「あやし=身分が低い」が生まれた。だから竹取の翁の「あやしがりて寄りてみるに」を「不思議に思って近寄ってみると」と訳すより「ちょ、竹光るとか訳わかんねえしwwwwww」くらいのが「あやし」の意味を的確に捉えられている気がする。意味は大体変わんないのに、なんか違う気がするね。いとあやし。


何が言いたいかと言うと、現代のニュアンスで過去の身分の上下を感じるのはすごくナンセンスだと思うっていうこと。チャリティの父親からするとバーナムも「いとあやし」なものに娘は取られるし、かわいい娘はなんか知らん奴らとつるんでるしで最悪だったろうなあと思う。この仕打ちがバーナムの反骨心を育てたんだろうなとは思う。ここの人間関係はこの映画で外すことはできない大事なものだと思う。現代の感覚で「チャリティの親父最低だな!!」と思うのは簡単だけど、今の感覚で言うならば「私飼い犬のベスと結婚するわ!」みたいなものだろうし、その感じを私たちが共有することはできないんだろうなとは思う。フィリップの両親がアンをどんな目で見ていたか、それを共有できないということはとても良いことなんだろうと思う反面、当時を当時のまま表現することの限界も感じている。クレヨンしんちゃんドラえもんも初期の描かれ方に疑問が投げかけられているけど、そんなん知らんがなでいいと思う。当時のことは当時のことで尊重してやろうよ。未来から目線だよ。


そういうわけでこの映画はフリークス映画というよりバーナムの反骨映画なんですよ。フリークス要素はあくまでもオマケ。というか、真面目にフリークスを描ける時代は終わったのかなと思う。『ダンボ』の実写でもアニメ版のこれでもかと迫害されまくるかわいそうなダンボは一瞬でおわり、成功したものの苦悩みたいなもの(厳密には多分違うけど)が描かれる。


少女椿」の実写版の奴でも「見世物小屋の描写が皆無なのは逃げというよりも勇気ある撤退」と評した。それだけ、このご時世フリークスに関する表現はかなり厳しい。それはフリークスが禁忌という面もあるけれど、フリークスの悲哀を肌感覚で観客が感じ取りにくいから表現側が重きを置かないんじゃないかなぁとは思う。どれだけうまく表現したとしても「残酷ショーだ!」で終わってしまう。だからこの映画でもバーナムを主人公にしてフリークス関係をサイドに押し込めたのは悪くない。逆に真っ向から立ち向かったら、そりゃもう大変よ。血の海よ。


この映画のいい所は「これがやりたっかったんだぜー!ババーン!」でずーっとゴリ押ししまくったところかな。ミュージカルシーンはどれも面白いし、バーのシーンは最高。ああ、映画館で見ればよかった! おしまい。

 

感想「SING」

ラストはいいんだよ。

 


【あらすじ】

潰れかけの劇場の支配人バスタ・ムーンは起死回生の企画として歌のコンテストを実施することにする。賞金を目当てに冴えない日常を繰り広げるメンバーが集結するが、賞金は架空のもので夢見ていた一同は落胆するも「コンテスト」を成功させようとする。


【感想】

いや、いいんだよ。歌は文句ないんだよ。ラストの盛り上がりはやばいんだよ。だけど、だけど、もうちょっと何とかならんのかっていうのが正直な感想。


※以下クソ酷評(しかも長い)なので辛い方はお戻りください。


いや、歌はいいんだよ。ラスト最高だと思うけどさ。


一時期「シン・ゴジラには無駄に足を引っ張る無能がいない」という話があったけど、おそらくこの作品は「無駄に足を引っ張る無能」だらけの作品なんだと思う。それが「ズートピア」との違い。ズートピアは事件に必然性があるけど、この作品には「必然性」が見当たらない。行き当たりばったりだけどなんか頑張った、みたいな印象。ラストはいいんだけどさ。


まず支配人のコアラのキャラが最後までよくわからなかった。トカゲのおばあちゃんとの関係もよくわからないし、おばあちゃんの足の引っ張りはもちろんコアラのやってることが本当に行き当たりばったりで辛い。ブロガーが芸術家とかアーティストとか名乗り始めたみたいな不安になる迷走感がある。ラストはいいんだよ。


それに各人の問題も見ていて胸糞なものばかり。ゴリラはモロに人種差別、貧困問題だしブタは女性蔑視だしハリネズミデートDVだしネズミとゾウは何らかの精神的疾患を感じさせる。いや、それらの問題を取り上げるのはいいんだよ。だけど、落とすだけ落として中盤でひとつも盛り上がらないのは如何なものか。歌がすごいと聞いていたのに中盤の空洞は頂けない。ラストはいいんだよ。


個人的にイルミネーションのギャグが好きじゃないだけかもしれないけど、ギャグに必然性を感じないのよ。話の流れで「フフっ」となるのではなく、ギャグをやりたくて話をギャグに寄せてる感じ。ラストがやりたいから過程を無理矢理悲惨にした、みたいな。


コアラがクズという評を見るけど、このコアラのクズというかキャラに必然性が見られないんだよね。洗車シーンもギャグのためにやってる感じだし、話に一貫性を感じない。劇場を潰したくなかったらもっとやるべきことたくさんあるだろ……という感じ。


そんでこれも他の評に多かったけど、ネズミのキャラ設定が甘い。何故彼が暴言を吐くのかの理由がわかるシーンが少ない。ズートピアはゾウのアイスクリーム店で表現していたところだと思うんだけど、それが明示されないからモヤモヤする。


ゴリラパートは完全に「天使にラブソングを2」で辛くなった。基本的にコミカルなシーンがない。辛い。それ以上に辛いのがヤマアラシパート。「失恋」じゃねえよ彼氏がデートDVモラハラ野郎だよ。学生相談室とかだったら全力でサポートしないとダメな案件じゃないですか。ブタの育児パートは比較的心が安らぐシーン。ゾウは完全に本人の問題なので辛いシーンは特にない。


そんで散々言われてるんだけどネズミのキャラが本当に迷子で困った。小さくて虐められるシーンが何度かあればわからないでもないんだけど、そういうのが特に見当たらないのが辛い。ゾウとの比較キャラなんだろうけど、ただのうだうだ言いまくる不快なオッサンになっている。彼の存在意義は何だろうともう一度映画を見たんだけど、「俺は本物しか認めねえ」という彼がゾウの歌声を聞いて震えるシーン。これのために彼がいたのかと思うと悲しくなってくる。


唯一よかったのが「吹き替え声優」というのも皮肉な話。内村光良は役者経験も豊富だし、役柄によくあっていたと思う(クズという意味ではない)。ゴリラがスキマスイッチ大橋卓弥ハリネズミ長澤まさみ、ブタは坂本真綾でネズミは山寺宏一。そしてゾウがMISIA。本業が歌手の方々は演技の面に不安はあったけど、キャラクター的に不安を抱えている役だったのでそれがいい効果を出していたと思う。MISIAのボソボソした声が歌のシーンでぶわぁーっとなるところは最高。そう、ラストは最高なのである。


もうさ、最後のシーンだけ延々とやってりゃよくね? ってくらい序盤~中盤のシーンにダメダメ感が漂っている。ダメダメな僕らが頑張ったカタルシスが欲しいのは分かるけど、ラストでぶち上げるだけの伏線がほぼ存在しない。そうなるとただ歌が上手いだけじゃんってなる。それは単にキャラの掘り下げが足りないだけだと思うんだよね。比較的ブタパートは育児に追われる冴えない主婦が最後はダンスも出来てるよっていうわかりやすい筋は見えた。でもゴリラパートはぶっちゃけ相当しんどいしハリネズミパートはモラハラ彼氏にビシッとした鉄槌がないのでカタルシスが減る。ネズミはまず葛藤がないしゾウはもう最後歌えばいいよって参加賞じゃないんだから。最後感動したのはゾウが歌ったからじゃない、MISIAの歌が最高だったからや。映画に感動してねえんだよ。


こんだけ豚みたいにブーブー言ってるんだけど、おそらくイルミネーションのアニメと相性がかなり悪いんだと思う。ミニオンズの何がいいのかよくわからない。一応『月泥棒』を見れば彼らの魅力がわかるのかと思ったけど、全然わからなかった。鶴瓶の声が和むわぁとかそんな印象しかなかった。なんだろう、どうしてこんなにイルミネーションと合わないんだろう。その理由が知りたいわ。そういうわけで今後もイルミネーションの映画を見れたら見てみようと思う。そんな映画鑑賞もありかなぁ。おしまい。

感想「ジョーカー」

昔はサイケなロッカーでロンドンあたりで鳴らしたものだよ

 


映画『ジョーカー』本予告【HD】2019年10月4日(金)公開


【あらすじ】

俺の名前は、ひゃっひゃっひゃっひゃ、アーサー、ひゃっひゃっひゃ、これからコメディアンに、ひーっひっひっひっひ、なる予定の貸出道化さ、あーっはっはっは! だけど何一つ幸せなんてありゃしねえ、傑作だな! ここ笑うところだぜ! 俺が道化のメイクで世界を変えた? 俺は、ひゃーっひゃっひゃっひゃ! この先は、はっはっは、笑えすぎて言えねえぜ!あーっはっはっは!


【感想(ネタバレなし)】

そんなわけで世間で大旋風を巻き起こしたジョーカー、見てきました! 控えめに言えば最高の映画です! 映画好きな奴、見てこい!


……そんなことを書きましたが、この映画自体「バットマン」という作品群の外伝に当たるので出来ればバットマンシリーズの中身を知っておいてから見た方がいろいろわかりやすいと思います。最低限バットマンがなぜ生まれたかとかは知っておいたほうがいいかと思うので。

バットマン (字幕版)

バットマン (字幕版)

 
ダークナイト (字幕版)
 


それと、この映画は人を選ぶ映画です。見所もたくさんあって面白いっちゃ面白いんですが、「話題の映画なんだってー久しぶりに映画でも見に行こうかな!」とか「映画とかよくわかんないけど彼女と初デートだし、流行ってる映画見に行こう!」みたいなノリで見に行ってはいけない映画です。特に映画をあまり見ない彼女とデートでもした日にはその後の展開が心配すぎるのでやめたほうがいいです。あと「映画オタク」でデート後に映画蘊蓄を語りまくる人と行くのもオススメしません。その後のディナーがまずくなります(HAHAHA)。


真面目にネタバレなしで感想を言うなら、主演のホアキン・フェニックスがアーサーから「ジョーカー」に変貌するシーンが本当に秀逸。久しぶりに映画館で鳥肌が立ちました。それまでの悲惨な精神病患者から無敵のジョーカー様になったその「きっかけ」がまた映画の展開として最高で、これぞ「カタルシス」となりました。この辺はネタバレ感想でガッツリ書きます。


何度も言いますが、この映画は特に準備をしないで見に行くと辛くなる映画です。出来れば「初代バットマン」「ダークナイト」などのバットマンシリーズ、それと「タクシードライバー」をはじめ主人公がどんどん惨めになっていく映画を見て心持ちを予行演習しておいたほうがいいと思いました。まぁ、現代のタクシードライバーだよね、うん。

 

タクシードライバー (字幕版)
 

 

それでは以降ネタバレ感想になるので鑑賞予定のある方は来週で閉鎖致しますのでお帰りください。また、ジョーカーを語る上で他の映画などのネタバレもあるので気をつけてください。

 

Joker (Original Soundtrack)

Joker (Original Soundtrack)

 

 

【感想(ネタバレあり)】

負のカタルシス


この映画を語ろうとしたときに思いついた言葉です。もう状況が悪くなって悪くなって悪くなって悪くなって、どん底でどうしようもなくなって「そうだ、どうでもいいや」と主人公が悪の悟りを開いた瞬間がこの映画の頂点でした。もう「アーサー」から「ジョーカー」になったときのホアキン・フェニックスの顔、最高。


んで「社会の分断が」「弱者が生きるには」みたいな感想は他のところでいっぱいやってるだろうから割愛。ここでは語りたいところを語っていく。


まず「信用できない語り手」問題。ぶっちゃけこの映画は「信用できない語り手」的な映画の中では良心的だと思う。まず最初のテレビの観客席にいるのが妄想だということが明示された時点で「この主人公は自分の都合のいい妄想に浸る癖があります」ということが語られる。そうするとご近所の女性とアーサーが恋仲のようなことになるというものすごく不自然なことに説明がつく。彼女との出会いが有耶無耶にされていて、次の登場でいきなりあんなに親しげになっているのがおかしい。そこで「こいつは夢か願望か何かだろう」と察する。


なおこの手の「突然自分の都合のいい妄想に浸る」タイプの主人公は他にもいて、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のセルマがいい例だと思う。「私は実は有名なダンサーの娘なの」という妄想が最悪の方向に転び、その場限りの美しいミュージカルを脳内で上演しても現実は待ってくれない。また少し趣は違うけど、「プレシャス」の主人公プレシャスもアーサーと同様、下手したらアーサーよりもひどい現実と向かい合っていてやりきれなくなるとたまに妄想の世界に浸る。現実では読み書きも満足に出来ず家では虐げられるプレシャスが妄想の中では着飾って堂々と笑顔でいるところは涙を誘う。

 

プレシャス(字幕版)

プレシャス(字幕版)

 


他の感想を巡ると「女版ジョーカーは」というものを見かけたが、それは「プレシャス」でだいたいやっていると思う。プレシャスは周囲が援助してくれたし自分で自分を助けようと気持ちを変えて行ったけど、アーサーは逆に自分で自分を追い詰めて行ったところがある。これは性別の問題と言うより、守るべきものがあるかどうかだと思う。セルマもプレシャスも行動原理は「母親」というところにあった。反面、ジョーカーはいつまでも「ママの息子」であった。


実はジョーカーの話で1番大事なのは社会でも格差でもなくて「母親」なんじゃないかと思ってる。もしアーサーに母親がなくてひとりぼっちだったら、ジョーカーにはならなかったのではないかと思う。アーサーがジョーカーに変貌したきっかけは、他の暴力事件でも人間不信でもなくて「母親が母親ではなかった」からだ。アーサーが紙一重で理性を保っていたのが年老いた母親のためだったということもあり、余計アーサーは裏切られた気分になったのだろう。だからこれは「父親殺し」ではなく「母親殺し」の映画なのだと思う。主に父殺しは自己の肯定のために行われるけど、母殺しは自己の否定に繋がりやすい。つまり「アーサー(ハッピー)」が否定されたことで生まれたのがジョーカーという映画。面白いじゃん。


底辺のオッサンが狂った妄想の末に母親を殺す映画と言えば、忘れてならない「ムカデ人間2」。心臓に自信のある人しか見られない映画です。

 

ムカデ人間2(字幕版)

ムカデ人間2(字幕版)

 


実はこの映画、結構ジョーカーと似ているところがあるなぁと思っている。精神を患っていてみんなからバカにされているようなオッサンが妄想をこじらせて、残酷な破壊衝動をスクリーンの中でばらまいて、それでいて「夢オチ?」という終わり方含めてなかなかジョーカーっぽい。違う点はジョーカーのほうは承認欲求も社会的影響もどんどん外へ広げていくのに対して、ムカデ人間2はひたすら内にこもったところで事件が起こる、というところだろうか。二人が幼少期に虐待を受けていたところも一緒だし、自分に危害を加えてくる恐ろしい男性を攻撃するところも似ている。


そして最大の類似点は二人暮しをしていた母親に裏切られていたと思って殺してしまうところだろう。ムカデ人間2のほうは、「母ちゃんは息子のこと理解する気なかったんだろうな」と思う反面観客もちっとも理解する気が起きないのでそれほど衝撃的なシーンではないのだけれど(見た目だけすごく衝撃的)、ジョーカーのほうは「俺もアーサーかもしれない」と思う人にあのシーンは本当に居た堪れないものだと思う。少なからず守ろうとしてきたものに裏切られていたことがわかった時、人はジョーカーになるんだと思う。


ジョーカーを生み出したのは社会の分断や格差だけではない。個人的な裏切りの積み重ねだと思う。銃を渡した同僚に行きずりの素行の悪い男たち、守ってくれない雇用主に冷たくあしらうトーマス氏。もし誰かが少しでもアーサーに優しくしていたら、アーサーはアーサーのままで生きられたのかもしれない。


トーマス氏についてはひどいなと思う反面、同情する余地はあると思っている。貧しい人を救済するとかしないとか以前に、妄想で自分の養子を「あなたの子だ」と言ってお金を集ろうとしている女がまとわりついてきたら、「貧しい人を助けなくちゃ」の前にどうしても自己防衛してしまうと思う。そしてその息子が「あなたは本当のパパですよね」と迫ってきたら、殴りはしなくても使用人を呼んでつまみ出すくらいはしてしまうと思う。真実をアーサーに伝えただけ、トーマスは偉いと思ってしまう。マーレイは確かに悪いことをしたけど、殺されるほど悪いことなのか、とも思ってしまう。


個人的にご近所のシングルマザーの一連が1番恐ろしかった。ちょっと目配せをしただけなのに妄想に登場して、勝手に自宅に侵入されるのはかなり怖い。このリスクを提示してしまったこの映画はかなり罪深い。


とにかく、ジョーカーを生み出した1番の原因は母親である。じゃあ母親に何が出来るのか、というとその辺も「プレシャス」では解決していないけれど触れられている。そこを踏まえていろいろ見ていかないと変な評に引っかかってしまうと思う。それこそジョーカーのように社会を分断しようとしている奴らに、この映画は格好の餌である。「俺たちもジョーカーだ」「ジョーカーこそ俺たちの姿だ」いやいや、そんなわけない。ジョーカーになり損なえばセルマのような結末もあるし、プレシャスのように救済の道もある。


例えば「真夜中のカーボーイ」を見て「これが俺のあるべき姿だ」と思う人はどのくらいいるんだろうと思う。あらすじだけ見ると完全に「持たざる者が野垂れ死にする」映画だし、そこで吹っ切れてジョーカー化してもやっぱり「俺たちに明日はない」わけで。

 

俺たちに明日はない (字幕版)
 


ジョーカーという映画の危険なところは「これは無二の俺だ」と観客に錯覚させるところだと思う。それはアーサーの妄想ゆえに「都合のいい展開」を何度も見せているからで、それが先程上げた映画との違いだと思う。そしてそれを言語化せず「どうせ理解できないよ」と突き放すことで更なる分断を呼んでいる。


私たちはアーサーになるかもしれないし、同時にトーマスにもアーサーのご近所のシングルマザーにもなるかもしれない。ただアーサーに共感しているだけではジョーカーの思うツボだ。共感の先にあることを始めないといけないんだと思う。でもそれって? 「理解できない」んだろうな。うーん、難しい。長くなったのでおわり。

 

感想「帰ってきたヒトラー」

まっくろくろすけ出ておいでー

 


【あらすじ】

アドルフ・ヒトラーが目を覚ますと、1945年ではなく2014年のベルリンだった。放送局をクビになったフリーのテレビマン、ザヴァツキは彼を「ヒトラーのモノマネ芸人」と思い、各地に連れていき「ヒトラーが現代に現れたら」という動画を撮影する。ヒトラーは現代に順応し、やがてテレビに出演して演説を始める……。


【感想】

黒い。


始まってしばらくは「侍が現代に来て鉄のイノシシじゃあ!」というノリもあってかなり笑えたけど、後半になるにつれて状況がどんどん笑えなくなってくる。オチに至ってはもう真っ黒。前半のコメディーノリがなければかなり後味が悪くなる結末だろう。セグウェイで笑った時間を返して欲しい。


この作品を通して描かれていたのは「ヒトラーといえども1人の人間」というのもあったと思う。文無しでスタンドに匿われていたり、ソイジョイ的なものを食べて感動していたり下世話なジョークに息ができないほど大笑いをしたり犬に噛みつかれて怒って銃殺してしまったり路上で絵を描いて売っていたりと、彼を「風変わりなただのおじさん」として描いているようなところがあった。


それが後半に行くに連れて、現代に順応したヒトラーは現代の情勢を踏まえて行動をするようになる。ここからが「帰ってきたヒトラー」の本番である。「人民に声を届けるためには道化になることも厭わない」として笑いものにされながらも発言を繰り返すことで「彼の言うことにも一理ある」として支持者を増やしていく。彼の書いた本は売れ、映画化してたくさんの支持者を得る。難民排斥デモの映像を背景に「これは好機だ」と考えるヒトラーで映画が終わるのもなかなか真っ黒な話だ。


クライマックスのシーンでヒトラーは「私は人々の中に生きている」と言う。それこそがこの作品で伝えたかったことなんだろうと思う。私達は「極悪な独裁者」という存在を信じている。しかし、そんなものは実はどこにもいないんじゃないかと個人的に思っていて、「極悪な独裁者」と呼ばれた人々はそういう虚像を被せられたのではないかと。


例えばウサマ・ビン・ラディンだって911のような卑劣なテロを指導したとされているが、彼自身欧米の何かの圧力に苦しんでいる仲間のために行動したり甥っ子に飴ちゃんを買ってあげるような一面もあったかもしれない。スターリンは初恋の女の子に声をかけられないようなこともあったかもしれないし、毛沢東は飼っていた犬を亡くして泣いたこともあったかもしれない。だからといって彼らのした所業が相殺されることは決してないけれど、「極悪人」としていいのかとはいつも思っている。マリー・アントワネットは悪の象徴として処刑されたけど、貴族に翻弄された彼女自身が全て悪だとは思えない。


どんな為政者だとしても「彼の言うことに一理ある」のはいつの時代もそうだし、賛否があって当たり前である。逆に「この人は悪だから」と全面的に決めつけることの方が危ないと感じていて、「悪だ悪だ」と思っていた人が案外まともなことも言っていて「あれ、悪者じゃないの?」と疑問を持ってしまう。特にヒトラーは称えるべき業績もたくさんあり、そういう現象が起こりやすいと思っている。


もちろん良いこともやったけどそれを上回る悪いこともやっているし、何より敗戦の罪は思い。個人的にこの辺の「極悪人」は戦争に勝ったか負けたかが左右しているのだと思う。もしかしたらチャーチルトルーマンが虐殺の極悪人に仕立て上げられた世界もあるかもしれないし、ソ連が世界を制していたら一体どうなっていたのか想像もつかない。


だから、「極悪人」についてはレッテルを貼って終わりなのではなく、何故「極悪人」という存在が生まれてしまったのか、今後極悪人を生まないためにはどうすればいいのかということを考え続けていかなければならないのだと思う。「帰ってきたヒトラー」ではまだヒトラーは「極悪人」ではなく、ただの亡霊のようなおじさんだ。彼を再び悪夢のような独裁者に仕立てるのも面白いおじさんのままにしておくのも実は私たち次第なのである。


私達はすぐ「悪者探し」をしたがる。誰かに悪者になってもらうと簡単に心を落ち着けるということを知っているからだ。ユダヤ人を虐殺したナチスもインテリは全員死刑にしてしまった文革ポル・ポトも簡単な「悪」を排除しようとした。彼らを嫌悪する気持ちもわかるが、だからといって彼らを「私たちとは違う」と切り捨てるのも彼らのやっていたことと変わりがない。私達もいつ誰かを精神的に虐殺してもおかしくない。その心と戦い続けるのがなかなか難しいのだけれど。


後半部分からそんなことを考えてみたけど、前半のドキュメンタリータッチのシーンはとても面白い。ドイツでナチスの軍服を着て歩いたらその場で問答無用の銃殺レベルだと思っていたのだけど、戦後70年経って結構その辺は緩くなったのだろうか。日本で旧日本軍の将校の服を着て歩いていたら……警察は来ないけど頭のおかしな人だと思ってみんな関わらないだろうな。それか軍服の意味をわからない層もあるかもわからない。


ここから細かい話になるけど、信頼していた秘書がユダヤ人だとわかって苦悩するヒトラーの姿は紛れもなく「人間」の描写だと思った。「血が薄くなっているから彼女はいいんだ」と言い訳をしても、自身の憎悪する存在と信頼した人物がイコールになったとき葛藤するヒトラーはその後どうしたんだろう。アメリカの大統領に黒人が選ばれる時代に、大っぴらに人種排斥を叫ぶことはある意味リスクである。もちろんヒトラーのことだからその辺の事情も踏まえた活動をしていくのだろう。ザヴァツキは動揺するヒトラーを見て「まさか本物では」と疑うきっかけになるのだけど、それ以外にヒトラーがサラリと人間的な感情をぶつけるシーンは貴重だと思った。差別心は誰だって持ってる。差別禁止と叫ぶ人にももちろん差別心はある。問題はその心とどう向き合うかだ。


そんな重いメッセージがあるのに前半部のブラックジョークの連発に中盤の笑えない人種差別ジョークが激しく弾幕を張ってきてクソ重いメッセージを攪拌しているような感じだった。現政権の悪口もなかなかだけど、「ユダヤ人がアウシュヴィッツに観光に行ったら評価は星1つ」は誰が笑うのかというくらい黒すぎて思わず「笑えねえよ」と画面に向かって口に出してしまった。


ザヴァツキの悲惨なオチもだけど、ゼンゼンブリンクのクソ無能っぷりもクレマイヤーの不思議ちゃん度合いとか脇役もなかなか個性があって面白かった。特にゼンゼンブリンクのかませ犬っぷりが最高だった。最後に日和るところ含めてすごくいい。


びっくりするほどこの映画は難しい話はない。ナチスについてそんなに知らなくてもいいし、ドイツの内情も知っていたら面白い、くらいのもので知らなくてもいいと思っている。ただ気を抜いて見ていると重いメッセージに押しつぶされるので注意が必要だ。ヒトラーは私たちの中で生きている。おしまい。