傍線部Aより愛を込めて ~映画の傍線部解釈~

主にひとり映画反省会。人の嫌いなものが好きらしい。

感想「湯を沸かすほどの熱い愛」

母ちゃんは強い。

 

湯を沸かすほどの熱い愛

湯を沸かすほどの熱い愛

  • 発売日: 2017/04/26
  • メディア: Prime Video
 

 

【あらすじ】

夫が蒸発して娘と二人で暮らす双葉はある日パート先で倒れる。病院で癌であり余命数ヶ月であることを宣告され、双葉は生きているうちにやるべきことをやる決意をする。探偵を使って夫を探し、学校へ行き渋る娘の問題解決に乗り出し、休業中だった銭湯を復活させる。


【感想】

純粋な母ちゃん映画だと思った。ラストのせいでサイコホラーとか言う人もいるけど、母ちゃん成分が濃縮されててそんなのどうでもいいと思った。


この映画には母ちゃんが沢山出てくる。まず宮沢りえのスーパー母ちゃん双葉。次に娘の面倒をみなくなった鮎子の実の母。それからフラフラ息子を育ててしまった拓海の実の母。育児を投げ出しても娘の心配をずっとしていた安澄の実の母。更に娘を産んだことすらなかったことにした双葉の実の母。実際に物語に絡む訳では無いが探偵の亡くなった妻も母を象徴するものだろう。


この中で生きていてまともに「母ちゃん」やってるのが双葉しかいないというのが恐ろしい。というか、映画だからなのかもしれないけど過剰なまでに「母ちゃん」という役割を双葉に背負わせてるの大丈夫なの? と思ってしまった。このご時世母はレリゴーして雪山で氷の城をおっ建てなければならないという不文律があるのに、こんなに「母ちゃん」を描いてしまっていいのか、と見ていて不安になった。


それと引き換え、他の母ちゃんズはなんていうか、それはそれで大丈夫なのか不安になる。鮎子や拓海の母は画面にこそ出てこないけれど、自分の子供を見て見ないふりをしていた感じがぷんぷんする。そしてそれの極みが双葉の実母(?)で、探偵が突き止めた場所で暮らしている老婆はその家のおばあちゃんとして収まっていて、双葉がそこに入る余地はなかった。


この辺で「なんで双葉は血の繋がっていない子供を受け入れたのか」が見えてくる。血の繋がりなど何の意味もないことを双葉は実体験から知っているし、終盤でもその現実をまざまざと見せつけられる。双葉の母ちゃんが本気で双葉を忘れているとは思えない。ただ末期ガンということを知らず「金でもたかりに来たのか」と思ったのかもしれない。それでも「産んだ覚えはない」というのはかなりキツイ。双葉全否定じゃないか。


だから、双葉は自分の存在を認めてくれる存在に飢えていた。その「認められたい」衝動がスーパー母ちゃんを作り出した可能性はある。母ちゃんとして、誰かの心に残りたい。そんなスーパー母ちゃんの背景を考えると悲しくなってくる。


前から「父ちゃん映画は泣けるけど母ちゃん映画は純粋にえがったえがったができないのは何故だろう」と疑問だったけど、この映画を見て何となくその答えが見えてきたきがする。父ちゃんは乗り越えるものだけど、母ちゃんは己のアイデンティティ。だから母ちゃんの物語はそのまま子供の物語にもなる。関係性ではなく、同一化する。だから問題が拗れると面倒くさいことになる。


個人的な話をすると、自分が生まれるときに母親が死にかけたのでかーちゃんから「もしかするとアンタはこの家で育ってなかったかもしれないねー」と今でも言われる。そうすると安澄みたいになっていたのかもしれない。とーちゃんが再婚してその女の人をかーちゃんと思っていたかもしれないし、親戚やとーちゃんの友人の子供のいない夫婦に育てられていたかもしれない(ガチで一瞬そういうムードになったらしい)。


そういうわけで母ちゃんという存在は保護者という枠に収まらずその人のアイデンティティを決定してしまうすげぇ存在なんだと思うのです。もちろんそれは血の繋がりが全てではなく、今作のように育ての母でも変わらない。母ちゃんとは概念。自己同一性の塊なのだ。


最後に、ラストは普通に火葬場から帰ってきて、双葉の愛を受け継いだ者達が双葉を想って愛のように包み込む風呂に入っているところだと解釈した。普通に考えて銭湯の炉ごときで人間をしっかり灰に出来るとは思えないし、あんなところに大好きな母ちゃん押し込められるかと思うとキツイんじゃないかと思うのね。火葬場の炉はまだ人間が入る用だから楽に入っていけるけど、銭湯の釜はどうなんだろう……とか余計なことを考えるからよくないんだろうな。面白い映画だと思いました。この監督の次の映画も見たいと思いました。おしまい。