傍線部Aより愛を込めて ~映画の傍線部解釈~

主にひとり映画反省会。人の嫌いなものが好きらしい。

感想「ジョーカー」

昔はサイケなロッカーでロンドンあたりで鳴らしたものだよ

 


映画『ジョーカー』本予告【HD】2019年10月4日(金)公開


【あらすじ】

俺の名前は、ひゃっひゃっひゃっひゃ、アーサー、ひゃっひゃっひゃ、これからコメディアンに、ひーっひっひっひっひ、なる予定の貸出道化さ、あーっはっはっは! だけど何一つ幸せなんてありゃしねえ、傑作だな! ここ笑うところだぜ! 俺が道化のメイクで世界を変えた? 俺は、ひゃーっひゃっひゃっひゃ! この先は、はっはっは、笑えすぎて言えねえぜ!あーっはっはっは!


【感想(ネタバレなし)】

そんなわけで世間で大旋風を巻き起こしたジョーカー、見てきました! 控えめに言えば最高の映画です! 映画好きな奴、見てこい!


……そんなことを書きましたが、この映画自体「バットマン」という作品群の外伝に当たるので出来ればバットマンシリーズの中身を知っておいてから見た方がいろいろわかりやすいと思います。最低限バットマンがなぜ生まれたかとかは知っておいたほうがいいかと思うので。

バットマン (字幕版)

バットマン (字幕版)

 
ダークナイト (字幕版)
 


それと、この映画は人を選ぶ映画です。見所もたくさんあって面白いっちゃ面白いんですが、「話題の映画なんだってー久しぶりに映画でも見に行こうかな!」とか「映画とかよくわかんないけど彼女と初デートだし、流行ってる映画見に行こう!」みたいなノリで見に行ってはいけない映画です。特に映画をあまり見ない彼女とデートでもした日にはその後の展開が心配すぎるのでやめたほうがいいです。あと「映画オタク」でデート後に映画蘊蓄を語りまくる人と行くのもオススメしません。その後のディナーがまずくなります(HAHAHA)。


真面目にネタバレなしで感想を言うなら、主演のホアキン・フェニックスがアーサーから「ジョーカー」に変貌するシーンが本当に秀逸。久しぶりに映画館で鳥肌が立ちました。それまでの悲惨な精神病患者から無敵のジョーカー様になったその「きっかけ」がまた映画の展開として最高で、これぞ「カタルシス」となりました。この辺はネタバレ感想でガッツリ書きます。


何度も言いますが、この映画は特に準備をしないで見に行くと辛くなる映画です。出来れば「初代バットマン」「ダークナイト」などのバットマンシリーズ、それと「タクシードライバー」をはじめ主人公がどんどん惨めになっていく映画を見て心持ちを予行演習しておいたほうがいいと思いました。まぁ、現代のタクシードライバーだよね、うん。

 

タクシードライバー (字幕版)
 

 

それでは以降ネタバレ感想になるので鑑賞予定のある方は来週で閉鎖致しますのでお帰りください。また、ジョーカーを語る上で他の映画などのネタバレもあるので気をつけてください。

 

Joker (Original Soundtrack)

Joker (Original Soundtrack)

 

 

【感想(ネタバレあり)】

負のカタルシス


この映画を語ろうとしたときに思いついた言葉です。もう状況が悪くなって悪くなって悪くなって悪くなって、どん底でどうしようもなくなって「そうだ、どうでもいいや」と主人公が悪の悟りを開いた瞬間がこの映画の頂点でした。もう「アーサー」から「ジョーカー」になったときのホアキン・フェニックスの顔、最高。


んで「社会の分断が」「弱者が生きるには」みたいな感想は他のところでいっぱいやってるだろうから割愛。ここでは語りたいところを語っていく。


まず「信用できない語り手」問題。ぶっちゃけこの映画は「信用できない語り手」的な映画の中では良心的だと思う。まず最初のテレビの観客席にいるのが妄想だということが明示された時点で「この主人公は自分の都合のいい妄想に浸る癖があります」ということが語られる。そうするとご近所の女性とアーサーが恋仲のようなことになるというものすごく不自然なことに説明がつく。彼女との出会いが有耶無耶にされていて、次の登場でいきなりあんなに親しげになっているのがおかしい。そこで「こいつは夢か願望か何かだろう」と察する。


なおこの手の「突然自分の都合のいい妄想に浸る」タイプの主人公は他にもいて、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のセルマがいい例だと思う。「私は実は有名なダンサーの娘なの」という妄想が最悪の方向に転び、その場限りの美しいミュージカルを脳内で上演しても現実は待ってくれない。また少し趣は違うけど、「プレシャス」の主人公プレシャスもアーサーと同様、下手したらアーサーよりもひどい現実と向かい合っていてやりきれなくなるとたまに妄想の世界に浸る。現実では読み書きも満足に出来ず家では虐げられるプレシャスが妄想の中では着飾って堂々と笑顔でいるところは涙を誘う。

 

プレシャス(字幕版)

プレシャス(字幕版)

 


他の感想を巡ると「女版ジョーカーは」というものを見かけたが、それは「プレシャス」でだいたいやっていると思う。プレシャスは周囲が援助してくれたし自分で自分を助けようと気持ちを変えて行ったけど、アーサーは逆に自分で自分を追い詰めて行ったところがある。これは性別の問題と言うより、守るべきものがあるかどうかだと思う。セルマもプレシャスも行動原理は「母親」というところにあった。反面、ジョーカーはいつまでも「ママの息子」であった。


実はジョーカーの話で1番大事なのは社会でも格差でもなくて「母親」なんじゃないかと思ってる。もしアーサーに母親がなくてひとりぼっちだったら、ジョーカーにはならなかったのではないかと思う。アーサーがジョーカーに変貌したきっかけは、他の暴力事件でも人間不信でもなくて「母親が母親ではなかった」からだ。アーサーが紙一重で理性を保っていたのが年老いた母親のためだったということもあり、余計アーサーは裏切られた気分になったのだろう。だからこれは「父親殺し」ではなく「母親殺し」の映画なのだと思う。主に父殺しは自己の肯定のために行われるけど、母殺しは自己の否定に繋がりやすい。つまり「アーサー(ハッピー)」が否定されたことで生まれたのがジョーカーという映画。面白いじゃん。


底辺のオッサンが狂った妄想の末に母親を殺す映画と言えば、忘れてならない「ムカデ人間2」。心臓に自信のある人しか見られない映画です。

 

ムカデ人間2(字幕版)

ムカデ人間2(字幕版)

 


実はこの映画、結構ジョーカーと似ているところがあるなぁと思っている。精神を患っていてみんなからバカにされているようなオッサンが妄想をこじらせて、残酷な破壊衝動をスクリーンの中でばらまいて、それでいて「夢オチ?」という終わり方含めてなかなかジョーカーっぽい。違う点はジョーカーのほうは承認欲求も社会的影響もどんどん外へ広げていくのに対して、ムカデ人間2はひたすら内にこもったところで事件が起こる、というところだろうか。二人が幼少期に虐待を受けていたところも一緒だし、自分に危害を加えてくる恐ろしい男性を攻撃するところも似ている。


そして最大の類似点は二人暮しをしていた母親に裏切られていたと思って殺してしまうところだろう。ムカデ人間2のほうは、「母ちゃんは息子のこと理解する気なかったんだろうな」と思う反面観客もちっとも理解する気が起きないのでそれほど衝撃的なシーンではないのだけれど(見た目だけすごく衝撃的)、ジョーカーのほうは「俺もアーサーかもしれない」と思う人にあのシーンは本当に居た堪れないものだと思う。少なからず守ろうとしてきたものに裏切られていたことがわかった時、人はジョーカーになるんだと思う。


ジョーカーを生み出したのは社会の分断や格差だけではない。個人的な裏切りの積み重ねだと思う。銃を渡した同僚に行きずりの素行の悪い男たち、守ってくれない雇用主に冷たくあしらうトーマス氏。もし誰かが少しでもアーサーに優しくしていたら、アーサーはアーサーのままで生きられたのかもしれない。


トーマス氏についてはひどいなと思う反面、同情する余地はあると思っている。貧しい人を救済するとかしないとか以前に、妄想で自分の養子を「あなたの子だ」と言ってお金を集ろうとしている女がまとわりついてきたら、「貧しい人を助けなくちゃ」の前にどうしても自己防衛してしまうと思う。そしてその息子が「あなたは本当のパパですよね」と迫ってきたら、殴りはしなくても使用人を呼んでつまみ出すくらいはしてしまうと思う。真実をアーサーに伝えただけ、トーマスは偉いと思ってしまう。マーレイは確かに悪いことをしたけど、殺されるほど悪いことなのか、とも思ってしまう。


個人的にご近所のシングルマザーの一連が1番恐ろしかった。ちょっと目配せをしただけなのに妄想に登場して、勝手に自宅に侵入されるのはかなり怖い。このリスクを提示してしまったこの映画はかなり罪深い。


とにかく、ジョーカーを生み出した1番の原因は母親である。じゃあ母親に何が出来るのか、というとその辺も「プレシャス」では解決していないけれど触れられている。そこを踏まえていろいろ見ていかないと変な評に引っかかってしまうと思う。それこそジョーカーのように社会を分断しようとしている奴らに、この映画は格好の餌である。「俺たちもジョーカーだ」「ジョーカーこそ俺たちの姿だ」いやいや、そんなわけない。ジョーカーになり損なえばセルマのような結末もあるし、プレシャスのように救済の道もある。


例えば「真夜中のカーボーイ」を見て「これが俺のあるべき姿だ」と思う人はどのくらいいるんだろうと思う。あらすじだけ見ると完全に「持たざる者が野垂れ死にする」映画だし、そこで吹っ切れてジョーカー化してもやっぱり「俺たちに明日はない」わけで。

 

俺たちに明日はない (字幕版)
 


ジョーカーという映画の危険なところは「これは無二の俺だ」と観客に錯覚させるところだと思う。それはアーサーの妄想ゆえに「都合のいい展開」を何度も見せているからで、それが先程上げた映画との違いだと思う。そしてそれを言語化せず「どうせ理解できないよ」と突き放すことで更なる分断を呼んでいる。


私たちはアーサーになるかもしれないし、同時にトーマスにもアーサーのご近所のシングルマザーにもなるかもしれない。ただアーサーに共感しているだけではジョーカーの思うツボだ。共感の先にあることを始めないといけないんだと思う。でもそれって? 「理解できない」んだろうな。うーん、難しい。長くなったのでおわり。