傍線部Aより愛を込めて ~映画の傍線部解釈~

主にひとり映画反省会。人の嫌いなものが好きらしい。

感想「永遠のこどもたち」

 私のこどもたち、ずっとこどもたち。

 

 

【あらすじ】

  孤児院で育ったラウラは夫と息子シモンと一緒にかつて過ごした孤児院を障害を持つ子供のための施設として再建しようとしていた。そんなときシモンが「見えない友達がいる」と言い始める。施設の開園パーティーの日、シモンが姿を消してしまう。

 

 【感想】

 正直久々にパンチの利いた何かを見たような気がします。「おあー」とダメージを受けました。「おあー」です。

 

 主人公のラウラはどこにでもいる女性です。この手の映画にありがちなどこかが破綻した女性像とはかけ離れていて、どこまで行っても「息子思いの女性」でしかありません。シモンが目を放した隙にいなくなってしまったことも、必死で息子を探し続けたことも、ごく一般的な母親像なんですよ。大体こういう映画ではそこに至るまで「母親の絶対的な落ち度」みたいなのがあってそれが観客をモヤモヤさせがちなのですが、この映画ではそれは姿を現しません。

 

 謎の老婆の存在や霊媒師などからどうやらこの孤児院では昔奇形の男の子がいじめられていて、彼をいじめて死なせてしまった子供たちへの復讐として彼の母親が毒入りケーキを食べさせて子供の遺体を竃で焼いてしまうという「マジかよいわくつきじゃねえか」という事件が明るみに出ます。この時点で冷静に考えれば警察のお世話になったほうがいいと思うのですが、何故かそういうことにはならないあたりでホラー映画の良心を感じました。

 

 大体のこういう映画では「母親の絶対的落ち度」という話をしたのですが、この映画の場合は「過去の悪意」と向き合う母親という像があります。なんとなく『仄暗い水の底から』みたいな感じでしょうか。しかし謎の覆面の少年の幽霊らしきものの謎を追ううちに、彼女はとんでもないものを見つけてしまいます。

 

 地下室に倒れていた少年は変わり果てた息子の姿で、実はパーティーの日に彼は失踪したのではなく、地下室の階段から落ちて動けなくなっていたのです。それに気づかず、地下室への道を塞いだのはラウラ自身でした。悪意も落ち度も何もない、どうしようもない過失でした。その事実に耐えられず、彼女は息子の遺体を抱えて睡眠薬を大量に煽ります。

 

 すると現れたのは死んだはずの息子。それと毒入りケーキで死んだはずの子供たち。ラウラは彼らを呼び寄せ、窓から差し込む灯台の光の下、おとぎ話をします。灯台そばの家に暮らす、永遠のこどもたちの話を。ラストはシモンとラウラの名前の入った墓標に花を供えるラウラの夫のカットでおしまい。

 

 もうね、衝撃のラストとかいうよりただただせつない。だってどうしようもないじゃん、死ぬしかないじゃんみたいな感じになって、その後の映像がもう幻想的で美しすぎて「今までの不条理みたいな展開なんだったんだろう」みたいな呆然とした頭で母と子供の姿を見ているうちにシモンとラウラの墓標という現実にガーンと戻されておしまいというそっちこっちにエモさが降りきれるという浮遊感を味わえます。

 

 ただ悪趣味とか後味悪いとか、そういうのはあまり感じなかったんですよ。多分最後のシーンが美しすぎるせいですかね。この監督の『怪物はささやく』もちょっと見てみたいなぁ。原作読んでるのでこの監督の雰囲気に合ってると思うんですよね。おわり。