傍線部Aより愛を込めて ~映画の傍線部解釈~

主にひとり映画反省会。人の嫌いなものが好きらしい。

感想「ルック・オブ・サイレンス」

 そりゃ誰も過去の過ちなんか見ない振りをしたいに決まっている。

 

 

【あらすじ】

 「アクト・オブ・キリング」の続編。インドネシアで起こった共産主義者の虐殺を今度は被害者側の視点で描くドキュメンタリー。アディという男性は兄を虐殺で失っている。彼は眼鏡屋という仕事を生かして虐殺に加担していた人々に当時の話を聞く。

 

 【感想】

 うわー……。

 

 前作は前作で「うわーうわー」という感じでしたが、今回は「アカン」という言葉がぐるぐるしてしまいました。アカン。

 

 何がアカンかというと、前作では「加害者に虐殺の様子を聞いてみよう!」というところが今度は「被害者が加害者に『ねえねえ虐殺ってどんな気持ち?』って聞いてみよう!」ってところです。前作『アクト・オブ・キリング』を観ていればインドネシアでは過去に起きた共産主義者の虐殺は「英雄的行為」であり「仕方なかったこと」として多くの国民が目を逸らしている「都合の悪い出来事」なのは自明です。虐殺に加担したものは「俺たちのおかげで悪の共産主義者がいなくなった」と本気で思い込み、多くの市民は「あの時はああいう時代だったから仕方なかった」と思っています。

 

sidelinea.hatenablog.jp

 

 そんな中で兄を殺された男性が眼鏡屋という職業を利用して加害者に接触し、当時のことを聞きだします。『アクト・オブ・キリング』であった通り「おーおー、あんときはなー、随分なことだったなぁ」などべらべらと武勇伝を語り始めます。「そういえば殺した人の中にこんな人はいませんでしたか?」と尋ねると「いたかもなあ」という加害者。この辺は『アクト・オブ・キリング』と一緒です。

 

 「それ、僕の兄なんです」とアディがネタばらしをすると途端に黙りこんだり逆ギレしたり、挙句の果てには「お前の家はどこだ」と脅迫し始める人も。既に故人となった加害者の家では露骨に嫌がられる始末。このドキュメンタリーを撮影したジョシュア・オッペンハイマー監督がもうインドネシアに入国できないらしいというところからも、このアディさんの身の上が案じられる。国民的タブーに触れて回る外国人&タブーの渦中の人物なんて命がいくらあっても足りない。それくらい未だに人間はタブーというものに弱い。

 

 『アクト・オブ・キリング』と同様、武勇伝を語る人たちもどこかで罪悪感を抱えていて、それを普段は押し殺しているのだろうと想像できた。前作にも華僑の男性が「俺の父さんも殺された」と訴えるが「まぁ、時代だったからなぁ」と加害者たちの中で流されているシーンがあった。それが今回は延々と続く感じだ。前作が「白が黒だと気が付いた人の話」だったら、今作は「黒を黒と言うと殺される人の話」だと思った。どちらも同様に闇が深く、そしてこれはインドネシアに限った話ではない。カインとアベルの諍い以来、いつでもどこでも起きていい話なのだ。もちろん現在も。

 

 どうも抑圧やトラウマというと「被害」という意味で使われることが多い気がしますが、実は「加害」も同様に忘れられたり正当化されたりする面があると思いました。DV加害者が「俺のやったことは愛のむちであり、暴力ではない」と正当化するのと一緒です。そんな彼らに「いや、でも殴ったことには変わりないでしょう」と畳み掛けると大体不機嫌になってそっぽを向いたり逆ギレを始めたりするのです。それはこの映画の加害者たちと同じ行動です。これは遠い民族の遠い問題ではないのでしょう。

 

 アディの職業が「眼鏡屋」というところも偶然にしては意味深だなぁと思います。よく見えるためにかけるメガネが見たくないものも映し出してしまうというのはあまりにも皮肉です。そんな皮肉でこの世界は残酷に回っているのでしょう。辛いけどおしまい。