傍線部Aより愛を込めて ~映画の傍線部解釈~

主にひとり映画反省会。人の嫌いなものが好きらしい。

感想「アクト・オブ・キリング」

 赤狩りもみんなで殺せば怖くない

 

 

【あらすじ】

 1965年、インドネシアの軍事政権下で共産主義者の虐殺が行われていたとされるがその話題はタブーとされていた。現地でプレマン(ヤクザ者)と呼ばれる者たちが虐殺を指導したとして、彼らに「当時の虐殺の様子を映画にしませんか」と持ちかけた姿をカメラに収めている。

 

【感想】

 以前から気になっていたタイトル。GyaO!で公開しているのに気が付いて滑り込みで視聴しました。そして予想外の長さに分割して見ることになったのもある意味衝撃。

 

 人間はどこまで残酷になれるのか、とかこの映画に登場する人たちは狂っているとか、そういう見方も大いにあると思う。でも、映像から伝わってくるのは「かつて何千人も殺したと豪語するおじさんも、ただのおじさん」にしか見えなくて、この登場人物たちがいわゆる「異常者」にはどうしても見えなかった。あたかも殺人の記憶を万引きの武勇伝のように語る彼らは、「過去と向き合う」というより「俺たちがスターになる」という点ではしゃいでいた。冒頭で「いいか、殴ると血が出るから針金でこうやって人を殺すんだ」と実演して見せたアンワル・コンゴの心境の変化が本作品の全てである。

 

 どうしても私たちは「殺人を犯した人」というのを化け物か何かのように考えがちだけど、普通の人だって人を殺すことはできる。アンワルのように針金さえあれば、何千人でも殺すことができる。そして人を殺してもそれを咎める人がいなければ、何事もなく余生を過ごすことができる。むしろ彼らは「英雄」として「街のちょっと偉そうなおじさん枠」に入っていた。

 

 華僑の継父を殺された経緯を話す人が「そういうことも映画に入れてもらえれば」と提案するけれど、「話が複雑になる」として制作陣は乗り気でなかった。このシーンが何だか薄ら寒い。「俺の父ちゃんはアンタに殺されたんだ」と言っているのに、「いやぁ、共産主義者は殺さなアカンかったからなぁ」で済ませるその空気が恐ろしい。 もう「殺人」という行為が「過去にお前のシャーペン借りパクしちまってすまん」くらいの文脈で語られていく。

 

 この映画は最後にアンワルが被害者の役を演じることで「あれ、俺たちもしかしてものすごく怖いことをしてしまったのか?」と気づくところで終わる。冒頭で「ここで針金でこうやると死ぬんだ」とニコニコしながら語っていたアンワルが、同じ場所にやってきて「ここで、たくさん殺した」という実感が広まってきて激しい嘔吐感に襲われる。そのあまりにもドラマティックな展開に「ヤラセではないか」という気がしないでもない。しかし、ここはこの映画の本質ではないと思う。「悪いことをしました、反省」では終わらない見えない狂気の世界が、この映画の全編から漂ってくる。

 

 アンワルはずっと悪夢に悩まされてきた。その悪夢の具現化を映画に登場させてコミカルな演出を試みる。他に、劇中で撮影している映画の主演のアンワルは殺されて首を晒され、動物に突かれるというカットを撮影している。おそらく彼自身は「悪いことをした」と思っていたに違いない。周囲の虐殺者たちは「政府がそう言ってきたから」「悪いのは共産主義者だから」「だから殺すのが正しかったのだ」と言う。「みんながそう言っているから」という方向で殺人すら容認されていくと言うこの空気が非常に恐ろしい。過去の殺人に対して向き合おうとしないし、向き合った瞬間に危ういバランスで保たれている何かが崩れてしまう、そんな気がした。

 

 虐殺が起こる時には「俺たちが正義だ」という観念が広まる。「ユダヤ人さえいなくなれば」と建設されたアウシュビッツツチ族を「ゴキブリ」と称したフツ族。「共産主義者は敵だ」というスローガンに従ったプレマンたち。歪な認知が広がると、正義も正義ではなくなる。殺人が恐ろしいのではなく、それこそが恐ろしいことだ。

 

 この映画には殺人者たちの素顔だけでなく、虐殺のことを知らない子供たちの姿も映っている。村の焼打ちのシーンで泣き叫ぶところを演じた子供がいつまで経っても泣き止まず、「スターは演技が終わったらすぐ泣き止むんだ」と周りの大人がなだめても泣き続けている姿に胸を打たれた。アンワルも自身が被害者を演じたことで被害者の痛みを理解しようと言う段階にたどり着いた。そしてアンワルが被害者を演じたシーンを確認する際に孫にわざわざ見せて「じいちゃん、いじめられているな」「かわいそうだな」と声をかける。「孫には同じ過ちを繰り返してほしくない」という思いなのだろうか。

 

 虐殺の空気も、西側諸国が東側諸国に対して生み出したものなのだろう。この空気すら「物語」であり、「ハリウッド映画のスター」の感覚で殺人者たちは共産主義者を殺していった。おそらく殺されたものの中には共産主義者とも呼べないような主義の人もいただろう。ただ華僑と言うだけで殺された人もいたのだろう。それもこれも殺したのは「個人」ではなく「そういう空気」のせいだとしか思えない。全部「みんながやってるから」が悪いんだ。

 

 結局、虚構の悪人を殺してきたアンワルは、別の虚構と向き合うことで真実を見つめる気になった。この虚構と向き合うということは非常に難しく、更に真実を見つめることはもっと難しい。何が真実でそうでないのか。本当に共産主義者は悪で、西洋諸国は正しかったのか。

 

 確かにアンワルはひどいことをした。しかし、彼が今すぐ不幸になって地獄に落ちるべきだとも思えない。彼は自分が何をしているかを理解していなかった。それは他の虐殺者にも言えることだと思う。「自分が何をしているか」を理解している人は、それほど多くないのかもしれない。そんなとき「殺人すらも是である」という価値観が共有されたら、おそらくまた同じようなことが起こるのだろうと思った。次作の『ルック・オブ・サイレンス』も見ようと思う。おわり。