傍線部Aより愛を込めて ~映画の傍線部解釈~

主にひとり映画反省会。人の嫌いなものが好きらしい。

感想「アキレスと亀」

 どんなに頑張っても、アキレスは亀に永久に追いつけないのです。

 

アキレスと亀 [DVD]

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【あらすじ】

 養蚕事業で財を成した父を持つ少年倉持真知寿(まちす)は絵を描くことが好きで、将来は画家になろうと思っていた。しかし会社の倒産と父の自殺により不遇な少年時代を過ごす。成人した後も働きながら絵を描くが「絵描きになりたいなら絵の勉強をしないと」という画商の言葉で美術学校に通い、破滅的な現代アートにのめり込む。結婚後もさっぱり絵は売れないが、「描く」ということだけはやめなかった。

 

【感想というか考察】

 見る前は「あーこれ北野映画だよなぁ、まだ観てないや」という軽い気持ちで見始めたのが敗因でした。内容がガツンとある映画は事前に心の準備をしないと精神的にやられるというメンタル構造をしているので、この映画の構造上完全にやられたわけです。もうガツンです。実は結構「これタイトル聴いたことある」くらいの情報だけであらすじとかそういうの本当に一切見ないで映画観始めてます。

 

 で、『アキレスと亀』ですよ。これは本当に内容が詰め込まれ過ぎ。いつもの三倍くらいの字数になりそう。それでも見ていくよ、真知寿=北野武が見ようとしたものを覗くということの意味を。これ、単純な夫婦の愛の物語じゃないですよ。

 

 冒頭、倉持真知寿の裕福だったころのシーンで始まります。芸者を呼び絵を買う余裕のある生活。そして真知寿自身もかなり甘やかされて「坊ちゃんは絵描きになるのですから絵を描いていればいいのですよ」という生活を送る。学校でも授業を聞かなくても自分勝手に汽車を止めてしまっても「坊ちゃんだから」と平気。そして中尾彬パパの見事な死にっぷりにしびれました。それからあれよあれよという間に落ちぶれていく過程もあっさりしていて、テンポがいいなぁと思いました。

 

 幼少期後半のエピソードは、田舎の唯一の身寄りに引き取られたけれど絵を描くことしか知らなかった真知寿少年が世間とズレがあることを観客が嫌と言うほど思い知る場面です。ただ叔父もこの前までお坊ちゃまだった真知寿にいきなり掃除や皿洗いをやらせるのはちょっとどうなのかなぁと思いつつも、真知寿がたくましく大きくなってくれればなぁと思いながら見ていました。このパートで嫌と言うほど思ったのが、子供は親がいなくても生きていけるような教育や躾をしておかなければいけないのだなぁということです。とにかく甘やかされていた真知寿は完全に他人と適切にコミュニケーションをとる方法を失っていました。この「適切にコミュニケーションできない」は後々聞いてきます。ただの性格や特性、というものでもないのでしょう。真知寿が芸術に逃げいている、とも解釈できると思いました。

 

 そしてこのエピソードの一番の見どころは、「又三」という「ちょっと足りない」人物の存在。又三は日がな一日絵を描いていて「そんな奴」として認識されていた。真知寿も「又三」になる道が一番幸せだったのではないか、とも思う。ところが母も死に、母の死に顔を絵に描いたことでいよいよ気味悪がられ、児童養護施設に追い払われる。「バスを描きたい」という又三に真知寿は裕福だった時代のまま「目の前に立っていれば止まってくれる」と助言し、バスの運転手に怒られる。真知寿が旅立つ日、又三はバスの前に飛び出して轢かれる。又三は変化しない村の中でずっと止まっている景色しか描くことはできなかった。ところが真知寿が動くものを描くと言うことを教えてしまったことで、「又三」として生きることができなくなってしまったのではないだろうか。しかし三又又三が演じたからって名前がそのまんまなのは何なんだろうか。

 

 それから時間は流れ、青年になった真知寿は役者を柳憂怜に変えて更に絵にのめり込んでいく。新聞配達をする傍ら真面目に描いた絵は「つまらない」と言われ、更に「今時画家になりたかったら美術学校に行かないと」という画商の言葉を素直に聞いて真知寿は学校に通い始める。この辺から胡散臭い連中がたくさん登場して、真知寿を「芸術」の道に堕落させることになる。何故か急に電撃ネットワークの舞台が始まるところはものすごく面白かったです。そして「ゲージツは爆発だ!」の言葉のごとくあっけなく死んだ芸術仲間。正直彼らのやりたいことっていうのは、当時の価値観でいうと肌で感じていないのでよくわからないのですが「偶然性の芸術」というものを信仰している人だったのでしょうか。今風に言うとメディアクリエイターですね。

 

 この辺から真知寿は迷走していくのだけれど、モデルをしてみたいという女性に対してピカソの真似をして怒らせると言うのはベタだけど面白かった。ただ、こうなるまでに真知寿は二度も「描くものをよく見て描きなさい」という教えを貰っている。一人目は冒頭に出てくる真知寿のベレー帽をくれたフランス帰りの画家。もう一人は又三だ。ところが二代目画商に「よく見て描くだけなら誰も描ける」と言われ、よく見て描くことを止めてしまった。つまり「よく見て書く」という真知寿元来の芸風を否定して道を狂わせたのは「画商=売れる絵を欲しがる世界」だったのだ。画商は全て真知寿の絵を「有名画家の真似」と言って切り捨てる。そしてそれは実際真似に見える。そんな風に真知寿を変えてしまったのは、他ならぬ「芸術」なのだ。

 

 その後真知寿は芸術を理解すると言う同じ職場の女性と結婚し、娘を授かる。それでも芸術という夢から覚めることのできない真知寿は更に年を重ねて北野武になり、更にハチャメチャな「芸術」を極めていくことになるのだが、どう見てもウォーホルの真似にしか見えない絵が転がっているシーンが好きだ。ポップアートの巨匠ウォーホルは奇抜な作風や強烈な個性ではなく、大衆受けする個性の少ないアートを目指していた。これは実は真知寿自身なのではないかと思っている。その後もタケシ風アートが盛りだくさんで面白いのだけれど、どれもこれもが「オリジナル」ではない。倉持真知寿の絵ではなく、どう見ても北野武がそれっぽく描いた絵なのだ。これは結局、倉持真知寿という男が「結局内面を表現しようとしなかった」ことの表れなのではないだろうか。

 

 では真知寿の内面は何だったのかと言うと、常に「死」であふれていたのだろうと思うのです。印刷会社で使う広告に首吊り死体のシルエットを描くなど常人の発想ではないのですが、それが真知寿の考えていたことなのだと思います。父と母、そして又三に芸術仲間。全てが事故や自殺などで悲惨な死に体を真知寿の前に晒していました。そんな空気こそが真知寿の描くべき「内面」だったのかもしれませんが、「他人に認められる」ことを目標にしてしまい、かつ家族も授かった真知寿には目をそらさなければならない内面だったのでしょう。娘が死んだときも同様に、「死」が常に真知寿の芸術の奥底に潜んでいたのであればあれは当然の行動なのでしょう。実際母親の死に顔を描いた真知寿ですから、特に驚くべきところはありません。

 

 後半になると「絵にはメッセージ性が必要だ」ということでしばしば破壊的な芸術が登場します。気になったのが「交通事故」のモチーフ。かつて「交通戦争」と呼ばれるまで交通事故の件数が増えていた時代、こういうメッセージは必要とされていたと同時に、ありふれたものではなかったのかと思うのです。どんなに真知寿が頑張っても『チコタン』以上になれないわけですよ。アフリカのメッセージは無邪気な悪意に満ちていて、真知寿の作品と言うより、わざとボケてやっている北野武のニヤニヤが伝わってきました。

 


チコタン

 

 あと娘の死因がはっきりわからなかったのですが、おそらく薬物中毒ではないかと前後から推測できます。覚せい剤やめますか、それとも人間やめますか。

 

 最終的に「臨死体験をしないと芸術ではない」ということで本当に死にかけた真知寿に妻も愛想を尽かし出て行ってしまいます。しかし真知寿には「描く」ということしか残っていませんでした。結局部屋の中を真っ赤に塗りつぶし、そこに「倉持真知寿の遺影」という作品を作ります。その後、彼は自殺を図るけれど死にきれず、絵仏師良秀の如く燃える小屋の中で絵を描きながら死んでいこうとします。これでも結局死ぬことが出来ず、全身やけどを負いながら生きていくことになります。

 

 全てをなくした真知寿は拾った錆びたコーラの缶をフリーマーケットに並べて20万円の値段をつけます。通りかかったカップルが空き缶を見て「見て、なんかいい」「いいんだけど、20万円は高いね」「そうまでしてほしくないね」というような会話をする。ここまで来て「芸術とは20万円の値段が付けられた錆びた空き缶」というひとつの結論が与えられた。「なんか見ている分にはおもしろいけど、高い値段を出してまで買う人はいない」というもの。真知寿の人生を見ていると、非常に残酷な結末だ。もしこの缶が本当に売れてしまったら、真知寿の生涯はこの空き缶以下のものになるということだ。芸術とは、かくも非情なのである。

 

 ここで妻の幸子が「あなた、何やっているの」と真知寿を連れて帰るところでおしまいです。安易に「結局夫婦愛の話かぁ」と落とすのは簡単ですが、これは夫婦の在り方の話ではなく「芸術」の話です。この映画のタイトル『アキレスと亀』から真知寿は「芸術ではなく愛情に気が付く話」という解釈が一般的ですが、最初から真知寿は妻を愛していなかったわけではないと思うのです。ただ、芸術と言うものが燃え尽きてしまった結果、現れたのが人間としての倉持真知寿であり、家族だったという結果のようなものだと思っています。

 

 では「亀」とは一体何だったのか、と言われると私は「居場所」だと思うのです。幼少期から青年期の真知寿にとって居場所は絵を描くことであり、まるで逃避行動のように芸術に没頭します。そこに自分の居場所があると信じていたから「芸術=居場所=亀」を追いかけていたのでしょう。妻も最初は「芸術家の真知寿」に惚れていたわけで、真知寿は「芸術」を追い求めることで妻の居場所を作っていたわけです。しかし最終的に「芸術」の燃え尽きた真知寿にも手を差し伸べたことで、真知寿は「居場所=亀」を追いかける必要がなくなったのだと思います。だから「アキレスは亀に追いついた」と言うことではないでしょうか。

 

 他にも画廊や喫茶店に飾ってあったかつての真知寿の作品や芸術学校で観たかつて憧れの存在など、この作品にはメタファーや何らかを示唆するものがてんこ盛りです。そういうのを読解したいときにガッツリと見るべき映画だと思いました。爆弾がドカーンとかカンフーでアチョーとかチェーンソーでヒャッハーとか、そういう映画も好きですがこういう映画も面白いなぁと思うのです、おわり。