傍線部Aより愛を込めて ~映画の傍線部解釈~

主にひとり映画反省会。人の嫌いなものが好きらしい。

感想「ライチ☆光クラブ」

 おはよう、廃墟の恋人達。

※鑑賞するにあたって原作コミックを事前に通読することを強く強くお勧めします。

 

ライチ☆光クラブ

ライチ☆光クラブ

 

 


映画『ライチ☆光クラブ』予告編/超特報

 

【あらすじ】

 廃工場に集まって、夜な夜な作業をする少年たち。彼らは「光クラブ」の帝王ゼラの元でロボットを作っていた。ライチの実を燃料に動くロボット「ライチ」は完成し、「少女の捕獲」のために町へ出ていく。やがて「ライチ」が少女を捕まえてきたことで、「光クラブ」は破滅への道をたどることになる。

 

 【ネタバレなし感想】

 東京グランギニョルの公演から約30年。念願の実写映画化です。

 

 簡単に言えば、世界を征服しようと言う誇大妄想狂の元に少年期独特の万能感を持った少年たちが集った結果、愛も正義も憎悪も内臓も全て飛び出しましたというお話です。どうしてもそこがメインになってしまうのですが、メカと少女の心の交流なども物悲しく、見ようと思えば見るところがたくさんありますし、舞台からコミックで幅の広がった表現が再度コミックを元に舞台化されることで表現の幅が広がっている面白い作品です。

 

 まずこの映画の見どころは、古川雄輝演じた廃墟の支配者ゼラの迫真の狂気演技ですね。多分この映画版「ゼラ」はライチファンなら「よくやった!」という気がするくらい「ゼラ」だったんですよ。原作コミックから再解釈された、更にド外道に進化した「ゼラ」というキャラクターを存分に楽しむことが出来ます。

 

 それから外せないのが、ライチのメカメカしさです。舞台版はやはり人が演じるのでどうしても「人間」っぽさが残ってしまうところをガッチリ「機械」にしてしまったところが映画版の有利な点かと思いました。コミックでも少し大きめの人間サイズでしたが、映画版では完全に「ロボット」です。アイアンジャイアント的な感じです。そこでかなり「処刑」の説得力が増していました。

 

 もうこの2点だけでも「原作ファンなら見に行くべし!」って感じです。あと疑惑のアレやアレやアレもかなりビジュアル的にバッチリ再現されているところもポイントが高いです。全体的に役者の演技力や背景の美術、それから「映画」ならではの説得力が加味されていて新しい「ライチ☆光クラブ」になっていると思いました。

 

 ただ、俳優さん目当てで映画館に見に行って「こんなにグロいとは思わなかった、気持ち悪い」という声が多数あるので(内臓飛び出すとまで思ってなかったのでしょう)、本気でオススメはしません。これがテレビや他の映画の予告など「見たくもないのに見てしまった」というならわかるのですが、映画館での鑑賞はお金を払って見に来ているもの。途中退場も周りのお客さんに迷惑になるので出来れば避けてもらいたいところ。R15の意味をもっと考えてほしいなと思いましたが多分R18でもR20でもこういう声はなくならないのでしょう。ゾーニングとは一体何なのか。

 

 以下、原作コミックを踏まえて映画版での変更点などについての話になるので鑑賞予定のある人、これ以上気持ち悪い話が嫌いな人はお帰りください。

 

ライチ☆光クラブ

ライチ☆光クラブ

 

 

 

 

【ネタバレあり感想】

 そういうわけでここからネタバレ感想になります。原作コミックと映画の違いなどの変更点で思ったことを長々と書いていくので、嫌な人はお帰りください。以下、自己責任でお願いします。ついでに言うと、ここからが本番です。

 

 まず、原作と映画では結末がかなり違います。「原作に忠実!」という触れ込みで行くと危険です。つーかそういういい加減なことを言う奴は一体何なんだ。以下ストーリーに関わる主な変更点を列挙していきます。

 

〇猫ちゃんマスクではなく、ライチから睡眠ガスが出る設定(雷蔵の見せ場が……)。

〇カノン以外の少女三人ではなく、捕獲に失敗した娼婦とオッサンを監禁していた。

〇全体的なカノンの性格(最初は普通にライチに怯えていた)。

〇ダフとカネダの処刑の順番(黒のキングの話はナシ)。

〇処刑にはくぎ打ち機を使用(故にタミヤのパチンコ設定なし)

〇マルキド・マルオの存在がなかったことになる(謎の生命体が黒い星の話をする)。

ニコ、ライチの木の消化作業に失敗し死亡(最後まで生き返らない)

〇カノン、薔薇の処刑後生き返らない(流石に息止め設定は無理だったのか)。

〇「最後のひとつぶ」が観念的な描写(夢の中?)。

ゼラ、ライチの一撃で絶命(ズンチャッチャも便器もなし)。

 

 全体的に「漫画や演劇ならではのファンタジー要素」を現実的にした改変が目立ちました。「少女三人を逃がしたらさすがに秘密基地の存在がばれるのでは?」「流石にぽんぽん瀕死の人間が生き返らないだろう」「パチンコとか便器でアレはないだろう」とか、そういうことを現実的にしていった結果が映画版なのだと思う。だから全体的なまとまりとしてはあったと思うし、カノンの性格もより現実味のある少女になっていて親近感のわくものになっていたと思う。 まぁ、普通逃げたいと思うよな。

 

 とにかく「映像でアレをやろう」という気概は感じた。「ちゃんと機械っぽいライチをつくろう」とかダフの自慰シーンとかゼラとジャイボの絡みとか、そして何より全体的な処刑シーン。目玉焼きも目玉抉りも逆パカ処刑も最後の大暴走も、その辺は漫画に忠実にやった感じがした。特にぺっちゃんこジャイボも忠実にしっかりやっていて、その辺は面白かった。逆パカ処刑も現実的な感じになっていて、とってもよかった。

 

 それでも、やっぱり納得いかないのが「ニコ」周辺のイベントの強制終了感だ。ゼラの親衛隊として「アインツ」の称号で呼ばれ、その右目を忠誠の証にライチに捧げたのがニコだ。この辺は前日譚の『ぼくらの光クラブ』から読むと相当にせつない。何故ニコがゼラに盲信するようになったのかというところが、この結末を迎えるにあたって非常に重要になってくる。誰からも顧みられるものがない者が最凶のアインツになる過程が非常にわかりやすい。

 

ぼくらの☆ひかりクラブ(上)

ぼくらの☆ひかりクラブ(上)

 

 

ぼくらの☆ひかりクラブ(下)

ぼくらの☆ひかりクラブ(下)

 

 

  個人的に原作コミックの前半で「ゼラは俺を気にかけてくれているぞ」というルンルンからの衝撃の現場を目撃して「アインツは見た」に至るニコの表情が本気で好きです。この話にはいろんな軸で「裏切り」がたくさん登場するのですがゼラもニコの忠誠心を裏切っていたわけで、あれだけ「裏切りは罪」とばかりに殺戮を繰り広げたゼラの末路はやはり自分の「裏切り」の代償なんだというのがニコのラストシーンだと思っているのです。便器で貫くのが難しかったら、小便器の棒部分を喉に突き立てたりとかしてほしかったな……クライマックスでゼラが小便器持ってきたとき「それを破壊するとはとんでもない!」という文字列が頭の中で踊ったし、そこで「実はニコは生きていた」の望みも消えたわけです。

 

 そういうわけでやっぱりね、ゼラはニコに殺されないとダメなのですよ。ニコのことはもういいとして、ラストではやっぱりゼラには「僕のライチ返せよぉ~」を言ってほしかったかもなぁ。「光クラブが崩れていく」だと説明だもんなぁとかそこばっかり気になりまして。

 

 あと印象に残っているのが、デンタクの「ごめんね、ライチ」が映画では結構クローズアップされていて感激しました。デンタクは最初からゼラに忠誠を誓っていたのではなく、「人の心をプログラムする」という己の目的を達成するためにゼラを利用していたわけで、そこをグッと印象深い描き方にしてくれて嬉しかったです。

 

 そんなこんなで、ニコの結末には非常に納得が行かないしカノンが死んじゃうのもなんだかなーと思うのですが、「映画版」と言うところを考えると仕方ない気もします。そういうわけでそういうことなんだろうと。あと、舞台版のDVDを何度も見ていたせいでクライマックスは「血糊が足りない」と思ってしまいました。舞台版は実際にちぎったり出来ないので役者が窒息しそうになるくらい血糊をドバドバぶっかけていたのが印象的だったので、余計にそう思ってしまったのだろうと。

 

 でもジャイボぺっちゃんこは大満足でした。みんなで見に行こうぺっちゃんこ。