傍線部Aより愛を込めて ~映画の傍線部解釈~

主にひとり映画反省会。人の嫌いなものが好きらしい。

感想「A.I.」

 スピルバーグによるスピルバーグの終末。

 

A. I. (吹替版)

A. I. (吹替版)

 

 【あらすじ】

 気候変動のため人間の生きる場所が変わった近未来。労働力などはロボットが担うようになっていた。ロボットのデイビットは人間の子供そっくりにつくられ、不治の病の息子の代わりとして母モニカを愛し愛されるようインプットされる。ところが奇跡的に息子が助かり、疎まれたデイビットは捨てられてしまう。しかし彼は「愛する」ことしか知らないロボットであった。

 

【感想】

 まず好きか嫌いかって言われたら、この映画の結末は好みではない。というか、この映画全体に覆いかぶさっている「ロボット」という概念が非常に恐ろしいと言うか、西洋圏の考え方なのかなぁと思った。多分八百万の神様がいて鉄腕アトムドラえもんが大人気の日本ではこういうことは起こらない気がしてしまう。そもそもデイビットみたいな開発者のエゴの塊のようなロボットは作られないだろう。

 

 何が残酷かと言えばロボットの制作者たちが「デイビットは成長しない」を身体だけでなく精神的にも求めたことだろう。人間は普遍を求めるけれど、日常レベルでは変化の無い物に耐えられない生き物なんだと思う。だからたとえマーティンと仲良く過ごせたとしても、彼が成人して家を出ていくときには誰からも疎まれていたのではないだろうか。デイビットにインプットされたのは「子供らしく成長すること」ではなく、「いつまでもママに甘え続けること」だった。だからこの映画は主人公の成長が全く描かれない。それどころか、デイビットは最後まで「僕はママに愛されるべきだ」ということだけを壊れたレコーダーのように主張し続ける。そこに彼の人格としての成長はなく、忠実に命令を遂行するだけの人工知能が存在するだけだ。結局デイビットは最後まで人間にはなれないのだ。

 

 その他にも所属の不明なロボットを壊す見世物のシーンなど、この映画では人工知能を愛おしむような表現どころかロボットを積極的に人間と差別している描写が目立つ。もちろん「こんなことされたら可哀想でしょ」と観客に訴えているのだろうが、上記のストーリーから逆説的に「ほらどうせロボットは人間とは違う存在なんだ」と切り捨てているように感じてしまった。20年近く前の映画だから仕方ないけどさ……。

 

 ただ、自身の出自を知ったデイビットの顔とか海中に沈んだ遊園地とか2000年後の地球とか、その辺のスピルバーグ節は流石スピルバーグという感じでした。もともとの企画がキューブリック監督だったらしいので、キューブリックのエッジの効いた映像で観て見たかったという気持ちもかなりあります。この時代を彼が見たら、どう感じるんだろう。