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傍線部Aより愛を込めて ~映画の傍線部解釈~

主にひとり映画反省会。人の嫌いなものが好きらしい。

感想「さようなら」

 なんか露悪的。

 

さようなら

さようなら

 

 

【あらすじ】

 原発が爆発したことで、日本国民は他国へ難民として非難することになった時代。病弱なターニャはアンドロイド、レオナと静かに暮らしていた。友人や恋人が去った後も、彼女たちはふたりで時を重ねていく。

 

 【感想】

 アンドロイドが演じていますよ、という理由で非常に観たかった本作なのですが実際に見てみると原発事故やその他の問題などがモリモリてんこ盛りすぎてなんか胃もたれを起こしそうな感じがしました。

 

 一番思ったのが「この舞台が原発事故である必要はどこから来たのかな?」っていうところです。冒頭に直接燃える原発?の映像を挟んで、それから様々な社会問題を一気にまき散らして、正直「それで?」って思った。何故ターニャの恋人が在日コリアン2世である必要があったのか。何故佐野さんは死ななければならなかったのか。何故子供にマスクをさせ続けるのか。アパルトヘイトまで問題を飛ばして、どう回収したかったのか。丁寧に描いているならともかく、傍観者が想像で福島の状態を描いているように見えて、福島で今生きている人を若干冒涜しているような気もした。何故なら、本筋には関係ないサブエピソードの雑なシーンだったから。なんていうか、すごく雑。やりたいなら本腰入れてもっとしっかりやってほしかった。

 

 映画の主題としてはターニャが死んでからが本番ってところなんだろうけど、そこまで行くのがとっても長い。それに始まってからのターニャお昼寝シーンも長い。映画を一周してからもう一度最初に戻ってくるとあの静のシーンにも何らかの意味を感じ取ることが出来るんだけど、とにかく長い。冒頭の大事な掴みなのにここで心が離れていく。

 

 あと、この映画の残念なところは「佐野さんのキャラが濃すぎた」ところだと思う。主題はターニャとレオナであってほしいのに、佐野さんとかサトシとか、ターニャ関連の人物の色が濃すぎて正直ターニャを食ってしまったと思う。特に佐野さんは強烈すぎる。「主人公の友達その1」のはずなのに、佐野さんだけで1本映画が撮れちゃうくらい強烈。『実の子供をネグレクトで殺して離婚されて、殺してない息子に会いに行くことを主人公に付き合わせて、避難もできそうになくて悲観して祭りの夜に燃えている櫓に飛び込む』って、すごいよ。でも次のシーンでターニャがぽつりと「佐野さん、死んじゃった」だけでおしまいっていうのもスゴイ。すごい諸行無常。もうこの映画レオナじゃなくて佐野さんの映画にしたほうがよかったんじゃないのかってくらい佐野さんインパクトすごい。

 

 で、レオナの是非なんだけれど演劇のように「レオナが現実にいて現実の出来事を捉えている」っていう体だったらレオナを使う意義があると思う。「本当にAIが演技しているぞ」っていうのがすごく伝わってくる。だけど、これは映画の話で「ありもしない原発事故後のありもしない世界のありもしないロボット」の話でしかない。虚構の中に入れるのであればレオナの存在価値は正直ない。多分ヒューマンドラマという点で見ればレオナは画期的な存在なんだろうけど、視点をSFに移すと同様のモチーフは正直語りつくされているに等しい。本作の後半は「死にゆく人間と死を理解できないロボット」の繰り返しでしかなく、正直ラストシーンも「だから何だ」という思いでした。

 

 退廃的な芸術、という意味では評価できると思うですがそこに至るまでに1時間以上回り道をするというのは非常にいただけない。しかも難民問題に関しては語るだけ語って特に何も解決しないと言うものいただけない。しかも全て台詞で何とか説明している感じだし、もう辛い。

 

 単純な話、平田オリザの短劇を元にしているとしてもこの話をするのに腐敗シーンも原発事故もいらないと思うんですよ。でもなんでやろうと思ったのか、みたいなところになんか引っ掛かりを感じるわけです。やっぱり「アンドロイドが演技する」という一点に甘えちゃったのかなあという感想しかないです。久しぶりに「劇場に見に行かなくてよかった」という感じの映画でした。おわり。