傍線部Aより愛を込めて ~映画の傍線部解釈~

主にひとり映画反省会。人の嫌いなものが好きらしい。

感想「エレファントマン」

 この象男はあなたの周りにもいるのです、多分。

 

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【あらすじ】

 医師のトリーブスが見世物小屋で見つけた象男――ジョン・メリックは奇病のため頭が膨れ上がり全身に腫瘍がある非常に醜い姿だった。研究のため彼を見世物小屋の主人から借りたトリーブスは彼の中に知性と人間らしい心を認め、彼を救おうとする。

 

【感想】

 ずっと見たかった映画のひとつでした。夏休みのテンションで観たのですが、思ったよりハッピーエンドで幸せになる映画でした。ただ、やはりテーマがテーマなので考えてしまうことがたくさんです。テーマは「人間の尊厳」です。

 

 何より辛いのはジョンを一生懸命助けようとしたトリーブス自身も彼に対して好奇の目を向けていなかったか、というところ。新聞に彼のことを投書して彼の存在を知ってもらおうとするなど彼なりに彼の救済に向けて動いていた。ところが婦長に「あなたも彼に憐れみをかけるひとたちも自分の偽善のために彼を利用するなら、見世物小屋と同じ」とバッサリ言われてしまう。トリーブスもそれに反論しようとするけれど、元々彼を興味の対象として保護したことを思い出して自己嫌悪に陥る。「私と見世物小屋の主人は、同じ穴のムジナかもしれない」と真剣に悩む。

 

 ただ、このトリーブスの悩みは贅沢な悩みなのではないかと思ったのです。トリーブスに保護される前のジョンはムチに怯え、口を聞くことも自分の意志を伝えることも出来なくなっていました。そのため知能がないと判断され、病院に保護されてからもトリーブス以外からはモノ扱いされていました。暴力で支配され頷くことすらできなくなっていたジョンにとって、少なくとも人間として扱ってくれる病院は天国のようなものだったのでしょう。

 

 例えその感情が同情や憐れみだったとしても、それすらもかけられなかったジョンにとってトリーブスやケンドール夫人の差し出した手は涙が出るほどうれしかったのでしょう。彼はトリーブスの妻と会って「初めてきれいな女性に優しくされた」と涙を流しました。そしてトリーブスの妻はジョンの境遇を思って一緒に涙をします。その感情が偽善だったとしても、間違いなくジョンは嬉しかったに違いないのです。

 

 偽善、という言葉がこの映画で何度か出てくる。ケンドール夫人は偽善家なのではないかと婦長は言うが、私はそう思わない。ケンドール夫人は新聞でジョンのことを知ると真っ先に面会に訪れ、様々な贈り物をする。彼女の取り巻きなどは「偽善」で彼に接していたのかもしれないけれど、少なくともケンドール夫人は彼をひとりの「かわいそうな友人」として、受け入れていた。ジョンに必要なのは、「彼を認める」ということだったと思う。

 

 しばしば「トリーブスはジョンと結局最後まで距離をとったままではないのか」という議論があるけれど、これは彼なりの葛藤の現れなのだと思う。途中までトリーブスはジョンを医者と患者の関係で接していたと思う。しかし婦長に指摘され、「私にとってジョンは何であろうか」と苦悩する。その結果があの微妙な距離なのではないだろうか。ジョンはトリーブスの苦悩を知ってか知らずか親しげに話しかけるが、トリーブスとしては一人の人間として居心地が悪いに違いない。ここで「友達である」と明確にアピールしてしまえば、完全に偽善サイドに堕ちてしまうのではないかという苦悩だ。ジョンが行方不明になったときに本気で心配をし、帰って来たときに暖かく出迎えた。それは彼の真心だと思う。

 

 もし障害がなければ、ジョンは虐待されることもなく心優しい男としてごく平凡な一生を過ごしただろう。ただ、その外見のために多くのものが失われた。まずは人間としての尊厳を認めて、彼の内面にふさわしい待遇を与えて、それから「偽善」について考えなければならない。おそらくジョンも聡明なのでそんな問題に薄々は気付いていたのだろう。だからこそのラストに繋がっている。「私はもう十分助けていただきました」というメッセージが、あの彼の幕引きではないのだろうか。ちなみにこのラストは史実のジョゼフ・メリックの最期と同じらしい。真相はわからないが、彼も劇中のジョンと同じ境地にいたのだろうか。

 

 ひとつ怖いのが、ジョンは心優しい人物なので誰もが彼を受け入れることができたけれど、もし虐待によって人間を憎んでいた場合どうなっていたのだろうということだ。また非常にずる賢く、自分の身体で同情を集めて不当に利益を得ようとする人物だったらどうなっていただろう。後者がそのまま見世物小屋の構造になっているのだが、見た目だけではなく明瞭に会話が出来ず半身が不自由なジョンがまともに仕事に就くのは難しいだろう。結局「低俗」として扱われる見世物小屋がジョンのような人間の受け入れ口になってしまう。途中で見世物小屋に連れ去られたジョンに優しくしたのは、同じ見世物小屋の仲間たちだった。「必要悪」ではないが、人間が誰かに優しくできるのは傷ついた経験があるからなのかもしれない。

 

 ジョンの場合外見というわかりやすいハンデがあったので彼を虐げたり助けたりするのは容易いことだ。だけど、現代では精神的なフリークスたちもたくさんいる。彼らを助けることは非常に困難だ。外見が普通であれば、わかりやすい理由で虐げることもないし彼らの歪な感情を誤った支援で更に歪めてしまうかもしれない。時代は下ってジョンの生きた時代よりも巧みに「尊厳」を盾に露骨な同情引きをして小銭を稼ぐ連中もいる。果たして「尊厳」とは何なのか。その答えを人類はまだ持っていない。

 

 印象に残っているのは、はじめは口もきけなかったジョンが大衆に追いかけられて「私は人間だ」と叫ぶシーン。言葉を得るということは非常に大事だ。彼は見世物小屋にいる間、何度同じことを思ったのだろうか。しかし、その言葉はムチにさえぎられて言葉になることはなかった。病院以外の場所でも彼は自分の意見を大声で述べることが出来た。それもこれもトリーブスとの信頼関係が、彼に叫ばせたのではないだろうか。何でもまずは信頼関係が大事なのだなあと思いました。おわり。