傍線部Aより愛を込めて ~映画の傍線部解釈~

主にひとり映画反省会。人の嫌いなものが好きらしい。

感想「籠の中の乙女」

 犬歯が生え変わったら、外に行けるの。

 

 

【あらすじ】

 厳格な両親によって家から一歩も外に出ることなく過ごしてきた兄と姉と妹。三人は名前すらなく、「海」を「皮張りの椅子」、「遠足」を「固い床の素材」などと偽りの知識を教育され外界と一切の接触のないまま成年まで成長する。両親は年頃になった息子に外部から女性を雇って性交渉をさせる。ある日長女は女性からビデオテープを借り、「外の世界」を見てしまう。

 

 【感想】

 冒頭から「気味の悪い映画だなぁ」という印象で、その印象がラストまで払拭されることはありませんでした。ひたすら気味の悪い映画です。それはそれで褒め言葉なのですが。

 

 始まってすぐに雇われた女クリスティーナと長男が致すシーンがあるのですが、これが色気も何にもなくて義務的に服を脱いで入れるだけという「秒で合体」も真っ青の秒で合体具合を見せつけてくるわけです。そして兄と交情した女とまるで友達のように話す姉妹たち。この家では外界の常識こそ非常識であり、彼らの常識が両親によって作られた偽りの常識であることが言葉少なに映像で淡々と見せつけられていく。

 

 三人とも成人と言ってもおかしくない年齢であるが、その振る舞いは非常に子供じみており、また精神も安定しているとは言えない。些細なことで殴り合いのけんかになって刃物を持ち出したり、奇声を上げながら人形の手足を切ったりと肉体を傷つけるようなストレスを抱えている。それでも両親は頑なに外の世界から子供たちを遠ざける。「犬歯が生え変わったら外に出られる」「家の外には車でなければ出られない」「褒美はシール」と虚構に閉じ込められた世界では、現実味のない時間が流れている。

 

 子供たちも薄気味悪いのだけれど、一番不気味なのはこの両親だ。特に父親について何故この隔絶された世界を作り上げたのか作中で明確に説明はない。似たような映画の『ヴィレッジ』では隔絶された世界を作り上げる動機も明らかになっていたけれど、これには決定的な動機の描写がない。ただ父親は「外の世界を知る」ことを「悪行」だと表現しているところがあった。カルト的信仰なのか、興味本位の実験なのか、それとも行き過ぎた過保護なのか、それは結局よくわからない。

 

 それから長女はクリスティーナから「キーボード」を舐めることと引き換えに映画のビデオを借りる。そのビデオには「ロッキー」「ジョーズ」「フラッシュダンス」など外の世界から見れば他愛のない映画が入っていた。しかし長女にとってこれらは非常に刺激的なもので、すぐさま映画のセリフを真似して兄と妹を困惑させる。もちろんすぐに父親にバレてビデオテープで殴打される。さらに父親はクリスティーナの家まで行ってビデオデッキで彼女を殴りつけ、長男の相手をする仕事をクビにする。

 

 長男の相手がいないということで次の性欲処理の相手は妹の中から選ぶことに。裸の男女が浴室で抱き合っているのに、まったくエロくないどころか何とも気持ち悪い絵面になっているのがこの映画らしいということか。おそらく子供たちはこの行為がどういったことなのかよくわかっていないのでしょう。まるで機械的なセックスほどおぞましいものもあまりない。

 

 この家にはプールがあって3兄弟でしょっちゅう水着を着て泳いでいるシーンが出てくるけれど、その水着姿も非常にアンバランスで全く大人の慎みが見当たらない。この不気味さは役者の力なのか、演出の妙なのか。おそらくどちらも該当するのだろう。とにかくセックスなのにエロさは一切なく、水着姿も姉妹のじゃれ合いも肉体をこれでもかというほど映像にしているのに映像では「肉」という感覚がない。なんていうか、映像に感情が載っていないとこれほどのっぺりとした映像になるのだなぁという印象だ。凶暴な生物「ネコ」に対抗するために家族総出で四つん這いになって犬の鳴きまねを練習するシーンは滑稽を通り越して奇妙な生物の生態を見ている気分になった。

 

 そういうわけで大体の暴力シーンもそれほどドキドキしなかったのに、最後の長女のダンスと犬歯抜歯シーンだけは非常に痛々しいものを感じずにはいられなかった。ダンスとは肉体で感情を表現することだ。自らを表現する必要のない妹はすぐに疲れたと言うが、「感情」を知ってしまった長女は滑稽な踊りをずっと続ける。まるで表現をすることを初めて知った子供のように。彼女は肉体は大人になったけれど、精神はまだまだ子供なのだ。その痛い思いが彼女に鉄アレイで抜歯を行わせ、父親の車のトランクに忍び込む行動力を与えた。最後は父親の仕事場に着いた車のトランクが映し出されて終わりという含みを持たせる終わらせ方だ。内側からトランクは開かないので、この後暴れて外の人に救出されるのか、それとも父親に見つかって折檻をされるのか。それは定かではない。

 

 この映画を通じて描かれていたのは「虚構」の恐ろしさだった。「車でないと外へは出られない」という外の世界にいる人間からすれば荒唐無稽な話を信じて馬鹿正直に家と道の境目から外に出なかった子供たちと、映画と言う虚構の世界に触れて外の世界へ飛び出した長女は「虚構」を信じているという点で一緒だ。人を縛るのも物語、人を解き放つのも物語なのだ。程度の差こそあれ、日本にもこのような状態の子たちがたくさんいる。願わくば、彼らが自分の物語を自分で掴めるような世の中になってほしい。