傍線部Aより愛を込めて ~映画の傍線部解釈~

主にひとり映画反省会。人の嫌いなものが好きらしい。

感想「ラヂオの時間」

 全ては千本ノッコのために。

 

ラヂオの時間

ラヂオの時間

 

 

【あらすじ】

 ラジオドラマの生放送が行われる。脚本は賞に応募した主婦のもので、平凡な女性のメロドラマの予定であった。しかし主役の千本ノッコが「こんな役イヤ、もっと華やかな役がいい」と言い出したことで舞台は熱海からアメリカへ、そして変更のためつじつまの合わないことをその都度なんとかしていかなければならなくなる。生放送の中、関係者が走り回る。

 

【感想】

 「カメラを止めるな!」で真っ先に思い出した作品。ずいぶん昔に見た映画だけど、こういうドタバタとしては基本的に古くなってないと思う。今見てもギャグ自体は面白い。だけど時代を感じる部分は多くあって、それが「この映画の時代もかなり昔になったんだなぁ」と思わせました。特に8センチシングル。あのシングルが売られていた時代を知らない人たちが成人しているからなぁ。そう考えると、「あの時代」っていうのは結構特殊な時代だったのかもしれない。

 

 ドタバタコメディなので軽く笑ってアハハと見るのが面白い映画なんだけど、「本当に脚本家は不倫をしたがっていたのか」というのが結構宙ぶらりんで終わってるんだよね。そこは話の本筋としてはどうでもいいといえばどうでもいいけど、「脚本家が不倫したいから書いた脚本」として読み取るのもつまらないと思う。そういうわけで逆の読み方をしてみる。退屈な日常の妄想の結果が脚本なのではなく、脚本を書こうとした結果日常が取り込まれたのがあの脚本なのではないだろうか。お話の筋は大体できていて、細かい部分をよく知っている日常から引っ張ってくることはよくある。それに自分と近い物事のほうが細部を知っているので書きやすい。そして自分から生まれた作品は自分の子供に等しい。

 

 だからこそ、収録中立てこもっても「ホンの通りにやってください!」と訴えたかったのだろう。あの場にいる全員が彼女を「素人の作家」として軽視しているのが気になった。素人でも一本の脚本を書き上げてラジオドラマになっているんだから、十分先生として尊重する必要があると思う。それをあーだこーだと自分の子供をあることないことされてしまっては怒りたくもなる。「ドナルドは帰ってこなければいけないんです!」というのは自分の感情と照らし合わせたのではなく、作家としてのプライドからだったのではないだろうか。

 

 そんなことはこの映画にどこにもありませんが、「脚本が勝手に書き換えられる」という理不尽を三谷幸喜が経験したことで生まれた作品なので、そういう作家としての矜持を感じました。難しいことだけどね。おしまい。