傍線部Aより愛を込めて ~映画の傍線部解釈~

主にひとり映画反省会。人の嫌いなものが好きらしい。

感想「グスコーブドリの伝記」

 これは賛否両論だ。

 

 

【あらすじ】

 森で幸せに暮らしていた少年ブドリの一家を、冷害による飢饉が襲った。家族を失ったブドリは農業などに携わりながら勉強し、やがて都で火山噴火の予知調査の仕事をすることになる。再び冷害がやってくるという予報をきき、ブドリはかつて自分を追い込んだ飢饉を思い出す。

 

【感想】

 原作は昔に一度読んだ程度だったのですが、それでも「こんなシーンあったかなぁ」とか「この人たちと再会しないのかな」とか思いながら見ていたので、原作に思い入れのある人にはわりと辛い改変だったと思います。そのくらい元のお話とこの映画の内容は違う点がたくさんあります。しかもそれが改良なのか改悪なのか判断が付きかねるような場所なのです。

 

 まず冒頭の飢饉の描写はかなり生々しいです。親子連れで何の前情報もなく見に来たら子供の心にトラウマを植え付けかねないもので、幸せに暮らしているシーンとの落差が更にその飢饉の悲惨さを強調していました。割と全力でこの辺は良いと思いました。

 

 そして大きな違いはやはり妹ネリの存在でしょう。原作では人買いらしき人に誘拐されて生き別れになった後ブドリときちんと再会できていたのに対して、映画では人外の者に拉致されてその後の詳細なことが出てこないのです。また原作では世話になった赤ひげその他と再会し、平穏に暮らす様子も描かれているのですが映画ではバッサリなかったことになっています。

 

 おそらく映画では「一人の人間の生き様」ではなく「幻想的な空間」をどこまでも追求したかったから俗世間的な平穏をカットしたのではないかと思っています。実際てぐす工場の場面は完全にブドリの夢のようになっているし、賢治の他の作品からキャラクターを持ってきてわざわざ幻想演出をしている。

 

 幻想演出自体は非常にきれいだし、この表現は宮澤賢治原作の作品なら誰でもやりたいと思うのではないかと思う。だけど、だけどそれがこの『グスコーブドリの伝記』で適用できるかと言うと問題がある。ブドリの一生は賢治が自身を重ねて書いたものであろうし、苦労しても一度平穏を手に入れて、そしてその身を捧げて皆を助けるというのが主題だと思う。だから最後のシーンがどうにもしっくり来ない。

 

 元の作品では淡々とブドリは島に残る選択をするのに対して、映画だと「自己犠牲」の面が強調されないままなんか幻想シーンに入って終わる。幻想シーンが悪いわけではない。魅せ方の問題なのだと思う。『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』からキャラクターを入れている、というのはわかるんだけどその必然性が映画の中で感じられなかった。結局「幻想空間描きたかっただけだYO!」という感じに見えてしまって、余計寂しい。

 

 個人的にアリかナシかと言われたらストーリー的には完全にナシなんですが、それでも映像は文句なしで頑張ってるんですよ。でも最後にいかにも感動させようとして小田和正をBGMにして言葉にならない的な映像を並べたのはセンスがないよ。そこは最後まで幻想空間で終わらせようよ。そういうわけでどちらかというとナシな方向です。ただ何度も言うけれど、映像は本当にきれいなんだよなぁ。残念。