傍線部Aより愛を込めて ~映画の傍線部解釈~

主にひとり映画反省会。人の嫌いなものが好きらしい。

感想「未知との遭遇」

 イマイチどこがヤマだかよくわからないのはヤマを探し続ける話だから。

 

 

【あらすじ】

 バミューダトライアングルで消えたと思われていた飛行機が何十年も経って当時のまま姿を現した。それと同じくして謎の飛行物体が地球上に現れる。その出現に立ち会ったものはそれぞれ謎の行動をとるようになる。ある土地では奇妙な五音のメロディを歌い始めたり、光を浴びたものは皆異様な山の形に執着する。すべては宇宙からのメッセージであり、ある場所に皆が集まっていく。


【感想】

 まず、あらすじが非常に書きにくい映画だということが第一点。「宇宙からメッセージを受けます。受け取った人はみんな奇怪な行動をとります。例えば奇怪過ぎて奥さんが子供連れて逃げます。それでもめげずに頑張ると宇宙人と遭遇できました」という感じです。群像劇のようなところもあって、一応ロイという中心人物もいるけれど、彼を主人公にしてしまうのも違う気がする。


 確かに「これからどうなるんだろう」と思うのは思うんだけど、なかなか核心部分に行くまでが長い。いつまでもバリー少年は行方不明のままでジリアンも山の絵を描いているし、ロイの奇行は家族でなくてもドン引きです。部屋をひとつ潰して山の模型を作るところもそれまでに彼の行動につながるような説明が一切なく、観客も一緒に不安を抱えるようになっています。でもロイが「できた!」と喜ぶシーンで観客は何が何だかわからないのでますます置いてけぼりです。


 我慢して我慢してデビルズ・タワーの存在が明らかになるころ、やっと観客は安心します。あとはデビルズ・タワーの上でUFOと逢うだけです。ところが政府の妨害が入ります。家族より山の幻想に憑りつかれたロイにそんなものは関係ありません。射殺されてもおかしくない状況で山頂にたどり着き、未知との遭遇に立ち会います。


 そしてUFOとの交流シーン。音階で交流をするのは既にヒントをもらっていたのでコミュニケーションは成立した。ところで人類はこんな風に他の星に行くとして、やっぱり何らかの言語を用いさせようとするのかな。梶尾真治の「地球はプレイン・ヨーグルト」に出てきた宇宙人は味覚で意思の疎通を図っていたし、視覚や聴覚に頼らないコミュニケーションってなんだろうね。


 最初にも書いた通り、この映画はあらすじが書きにくいしとらえどころがない。地球人が宇宙人と遭遇するためのいくつかの些末なことが積み重なっているという印象だ。最終的にロイは幸せだったろうけど、普通の幸せを捨ててまでそれはどうなんだろうと思ってしまった。人生狂わされておいてそういう結論になるということがちょっとアメリカンだよなー、とも思ってしまった。クライマックスの映像美は素晴らしいと思う。でも、そこにたどり着くまでちょっと長すぎたというのが正直な感想だ。