傍線部Aより愛を込めて ~映画の傍線部解釈~

主にひとり映画反省会。人の嫌いなものが好きらしい。

感想「帰ってきたヒトラー」

まっくろくろすけ出ておいでー

 


【あらすじ】

アドルフ・ヒトラーが目を覚ますと、1945年ではなく2014年のベルリンだった。放送局をクビになったフリーのテレビマン、ザヴァツキは彼を「ヒトラーのモノマネ芸人」と思い、各地に連れていき「ヒトラーが現代に現れたら」という動画を撮影する。ヒトラーは現代に順応し、やがてテレビに出演して演説を始める……。


【感想】

黒い。


始まってしばらくは「侍が現代に来て鉄のイノシシじゃあ!」というノリもあってかなり笑えたけど、後半になるにつれて状況がどんどん笑えなくなってくる。オチに至ってはもう真っ黒。前半のコメディーノリがなければかなり後味が悪くなる結末だろう。セグウェイで笑った時間を返して欲しい。


この作品を通して描かれていたのは「ヒトラーといえども1人の人間」というのもあったと思う。文無しでスタンドに匿われていたり、ソイジョイ的なものを食べて感動していたり下世話なジョークに息ができないほど大笑いをしたり犬に噛みつかれて怒って銃殺してしまったり路上で絵を描いて売っていたりと、彼を「風変わりなただのおじさん」として描いているようなところがあった。


それが後半に行くに連れて、現代に順応したヒトラーは現代の情勢を踏まえて行動をするようになる。ここからが「帰ってきたヒトラー」の本番である。「人民に声を届けるためには道化になることも厭わない」として笑いものにされながらも発言を繰り返すことで「彼の言うことにも一理ある」として支持者を増やしていく。彼の書いた本は売れ、映画化してたくさんの支持者を得る。難民排斥デモの映像を背景に「これは好機だ」と考えるヒトラーで映画が終わるのもなかなか真っ黒な話だ。


クライマックスのシーンでヒトラーは「私は人々の中に生きている」と言う。それこそがこの作品で伝えたかったことなんだろうと思う。私達は「極悪な独裁者」という存在を信じている。しかし、そんなものは実はどこにもいないんじゃないかと個人的に思っていて、「極悪な独裁者」と呼ばれた人々はそういう虚像を被せられたのではないかと。


例えばウサマ・ビン・ラディンだって911のような卑劣なテロを指導したとされているが、彼自身欧米の何かの圧力に苦しんでいる仲間のために行動したり甥っ子に飴ちゃんを買ってあげるような一面もあったかもしれない。スターリンは初恋の女の子に声をかけられないようなこともあったかもしれないし、毛沢東は飼っていた犬を亡くして泣いたこともあったかもしれない。だからといって彼らのした所業が相殺されることは決してないけれど、「極悪人」としていいのかとはいつも思っている。マリー・アントワネットは悪の象徴として処刑されたけど、貴族に翻弄された彼女自身が全て悪だとは思えない。


どんな為政者だとしても「彼の言うことに一理ある」のはいつの時代もそうだし、賛否があって当たり前である。逆に「この人は悪だから」と全面的に決めつけることの方が危ないと感じていて、「悪だ悪だ」と思っていた人が案外まともなことも言っていて「あれ、悪者じゃないの?」と疑問を持ってしまう。特にヒトラーは称えるべき業績もたくさんあり、そういう現象が起こりやすいと思っている。


もちろん良いこともやったけどそれを上回る悪いこともやっているし、何より敗戦の罪は思い。個人的にこの辺の「極悪人」は戦争に勝ったか負けたかが左右しているのだと思う。もしかしたらチャーチルトルーマンが虐殺の極悪人に仕立て上げられた世界もあるかもしれないし、ソ連が世界を制していたら一体どうなっていたのか想像もつかない。


だから、「極悪人」についてはレッテルを貼って終わりなのではなく、何故「極悪人」という存在が生まれてしまったのか、今後極悪人を生まないためにはどうすればいいのかということを考え続けていかなければならないのだと思う。「帰ってきたヒトラー」ではまだヒトラーは「極悪人」ではなく、ただの亡霊のようなおじさんだ。彼を再び悪夢のような独裁者に仕立てるのも面白いおじさんのままにしておくのも実は私たち次第なのである。


私達はすぐ「悪者探し」をしたがる。誰かに悪者になってもらうと簡単に心を落ち着けるということを知っているからだ。ユダヤ人を虐殺したナチスもインテリは全員死刑にしてしまった文革ポル・ポトも簡単な「悪」を排除しようとした。彼らを嫌悪する気持ちもわかるが、だからといって彼らを「私たちとは違う」と切り捨てるのも彼らのやっていたことと変わりがない。私達もいつ誰かを精神的に虐殺してもおかしくない。その心と戦い続けるのがなかなか難しいのだけれど。


後半部分からそんなことを考えてみたけど、前半のドキュメンタリータッチのシーンはとても面白い。ドイツでナチスの軍服を着て歩いたらその場で問答無用の銃殺レベルだと思っていたのだけど、戦後70年経って結構その辺は緩くなったのだろうか。日本で旧日本軍の将校の服を着て歩いていたら……警察は来ないけど頭のおかしな人だと思ってみんな関わらないだろうな。それか軍服の意味をわからない層もあるかもわからない。


ここから細かい話になるけど、信頼していた秘書がユダヤ人だとわかって苦悩するヒトラーの姿は紛れもなく「人間」の描写だと思った。「血が薄くなっているから彼女はいいんだ」と言い訳をしても、自身の憎悪する存在と信頼した人物がイコールになったとき葛藤するヒトラーはその後どうしたんだろう。アメリカの大統領に黒人が選ばれる時代に、大っぴらに人種排斥を叫ぶことはある意味リスクである。もちろんヒトラーのことだからその辺の事情も踏まえた活動をしていくのだろう。ザヴァツキは動揺するヒトラーを見て「まさか本物では」と疑うきっかけになるのだけど、それ以外にヒトラーがサラリと人間的な感情をぶつけるシーンは貴重だと思った。差別心は誰だって持ってる。差別禁止と叫ぶ人にももちろん差別心はある。問題はその心とどう向き合うかだ。


そんな重いメッセージがあるのに前半部のブラックジョークの連発に中盤の笑えない人種差別ジョークが激しく弾幕を張ってきてクソ重いメッセージを攪拌しているような感じだった。現政権の悪口もなかなかだけど、「ユダヤ人がアウシュヴィッツに観光に行ったら評価は星1つ」は誰が笑うのかというくらい黒すぎて思わず「笑えねえよ」と画面に向かって口に出してしまった。


ザヴァツキの悲惨なオチもだけど、ゼンゼンブリンクのクソ無能っぷりもクレマイヤーの不思議ちゃん度合いとか脇役もなかなか個性があって面白かった。特にゼンゼンブリンクのかませ犬っぷりが最高だった。最後に日和るところ含めてすごくいい。


びっくりするほどこの映画は難しい話はない。ナチスについてそんなに知らなくてもいいし、ドイツの内情も知っていたら面白い、くらいのもので知らなくてもいいと思っている。ただ気を抜いて見ていると重いメッセージに押しつぶされるので注意が必要だ。ヒトラーは私たちの中で生きている。おしまい。

 

感想「ES」

全員、別に普通の人。

 

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【あらすじ】

ある心理学の実験が行われる。被験者として潜り込んだ記者の はメガネに仕込んだカメラで極秘の実験の様子を記録する。実験は健康な成人男性を囚人役と看守役に分けて模擬刑務所を運営するというものだが、被験者たちはロールプレイにのめり込んでいく。


【感想】

悪名高い「スタンフォード監獄実験」を映画化したものです。見る前から「人間の狂気怖いよ」と散々レビューを見ていたのですが、確かにこれは怖いですね。狂気映画見慣れてない人には十分恐怖だと思います。でも予定調和の狂気なので狂気映画慣れしてる人なら普通に見れるヤツですね。


いわゆる「人間が怖い系」の映画でよく紹介されている本作ですが、その評判に違わずガチで「人間が怖い」をやりきった感じがします。途中までは正体がバレないか冷や冷やするスパイもののようなスリルもありますが、ヤバくなってからはスリルも何もあったもんじゃなく、「あ、これヤバい奴」ってなる。


つーか、元凶の博士がもう「だいたいこいつがわるい」すぎてひどい。なんで危険な実験中に研究会とかに出ちゃうんだよ。迂闊かよ。この人がいなくなったことがこの実験の結末に1番関わっていると思う。おまわりさん、こいつがほぼ悪いです。


でも一番面白いなと思ったのは、一番ヤバい奴になったのは実験前は「真面目が取り柄君」みたいな人だったということ。真面目って諸刃の刃で、しっかり物事に取り組める反面融通が聞かないと途端にアカンことになる。個人的に戦前のファシズムってみんながみんな最初から極悪人だったわけじゃなくて、この実験みたいに最初は使命を帯びて頑張っている人だったんだと思う。方向性が爆発して変なことになっちゃったけど、大体は皆「国のために」と純粋な気持ちだったんだろうなぁと。


そう考えると彼らを「ヤバい奴」にしておくのはやっぱり危険だと思う。誰でも「ヤバい奴」になる下地はあって、条件が発動するとみんな「ヤバい奴」になる。小さなところでは山岳ベース事件みたいなことが起こり、広がるとユダヤ人とか赤狩りみたいな世界各地で繰り広げられたジェノサイドに繋がる。「ジェノサイドやる連中と俺たちは違う、あいつら極悪人」は逆に危険だと思う。どうして彼らがジェノサイドしちゃったかを検証するのが歴史の在るべき姿なんだと思う。


そんなことを言うとまた怒られそうだけど、怒っている人は既に「監獄実験」で看守側になってるのかもしれない。もしかしたらインターネットは広大な監獄で、看守だと思い込んでいる人が囚人だと思っている人を叩きあっているのかもしれない。そこでプリズンブレイクですよ。おしまい。

 

感想「アルジャーノンに花束を」

ついしん、どーかついでがあったらアルジャーノンのことをおもいだしてください。

 

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【あらすじ】

知的障害のあるチャーリーは夜間学校で読み書きの勉強をしながらパン屋で雑用をして暮らしている。ある日夜間学校のキニアン先生から頭をよくする手術を受けないかと誘われ、手術で頭のよくなったネズミのアルジャーノンを紹介される。葛藤の末手術を受けることにしたチャーリーはすぐ頭脳明晰になるが、反面様々なことを理解して苦悩する。


【感想】

言わずと知れた名作の映画なのですが、結末を知っていてもやはりどのバージョンも悲しい。得ていく過程はとても気持ちいいのに、失っていくときの焦燥はいつも辛い。


内容は基本的に原作と変わらず、パン屋に勤めるチャーリーが手術で頭がよくなって周囲の視線に気が付き、そしてまた「バカなチャーリー」に戻っていく。映画では映画でしかできない表現もあると思っていたんだけど、割と実験的な映像が多くてチャーリーの悲哀というより映像美を優先した感が否めない。


その理由は映画ならではのストーリーの改変。何故かチャーリーとキニアン先生のロマンスが中心になって、キニアン先生に振られたチャーリーが謎の映像表現の旅に出かけるところがよくわからない。チャーリーの心象というより、やりたいことをやっただけのような気がした。


そして何よりアルジャーノニア(今作った適当な言葉)にはずせない「うらにわのアルジャーノンの墓」が全くなかったことになっている。これは勝手なアルジャーノニアの妄言なんだけど、この作品で1番大事なシーンは手術で頭がよくなって知的障害に対する偏見を意識したチャーリーの悲哀と、それと対をなす再度バカになっていく自分に怯えるチャーリーなんだよね。その恐ろしい運命に立ち向かっていこうというところで、同じ運命のアルジャーノンが死んでしまう。


映画ではアルジャーノンの運命も再度知的障害者として扱われる恐ろしさも描いているけれど、キニアン先生のロマンスに割いたカットをこっちで使って欲しかった。知能が衰えていくチャーリィの苦悩などをもっと見たかった。そこでヨヨヨとなるのがアルジャーノニアだから(過激発言)。


話は変わるけど、2015年バージョンのテレビドラマ「アルジャーノンに花束を」では現代に即した変更がされていて、元に戻ったチャーリィは1人で姿を消すのではなく信頼出来る仲間を得て幸せに暮らすというものになっている。この話のかなり大事なところはやはり最終的にチャーリィが孤独になり、アルジャーノンと寂しくどこかへ消えていくというところにあると思う。だから「ついしん、どーかついでがあったら」になるのであって。これは時代が変わったということなのか、視聴者に配慮したのか、それとも大人の都合なのか……なんにせよ、斬新すぎて「あ、アリなのかな」とは思った。途中から「はい原作無視ルート入りましたよ」スイッチが入るとなんでも受け入れられる。元気があればなんでも出来る。


そういうわけでアルジャーノンのお墓に花を備えに行かなきゃですね。お盆だし、お墓参りに行こう。おしまい。

 

感想「映画ドラえもん のび太の宝島」

星野源出せばいいと思いやがって。

 

 

【あらすじ】

宝島はあると言い、みんなに笑われるのび太ドラえもんに頼んで出してもらったひみつ道具「宝探し地図」で宝島を探すと、太平洋上に出来た新しい島に宝物があるらしい。ドラえもんのび太は早速宝島へ向かう。

 

【感想】

※この感想を書いている人は原作旧ドラ原理主義ということを踏まえて読んでください。

 

新ドラが苦手だとわかっていても気になるドラえもんの映画。月面探査は見てきて気になったところはいくつかあったけどそれなりにドラえもんの映画やってる感はあったので特に心がざわめくことはなかった。ただ原作でも好きな地底人の話を魔改造されたのがちょっと辛いくらいか。この勢いで「ハロー火星人」も映画化されたらまた泣く。


だから「宝島」も油断してしまった。「それなりに見れる奴だろうなぁ」と。アカンかった。どうしてくれるんだ。


最大のダメなところは見終えた後に「そう言えばタイトルなんだっけ」となってしまったところ。タイトルの回収がこんなに出来ていない映画も珍しい。


「宝島」と言えば少年が海賊の残した宝の地図を手に入れて冒険に出かけるロマン溢れる小説で、ドラえもんでも原作に宝島をモチーフにしたものはいくつかあるし、過去に「南海大冒険」という映画もある。その中で「宝島」を選んだのだからこれは立派な海賊やお宝が出てくるのだろうなと思うわけじゃん。わけじゃん。


宝の地図も海賊も宝もメインじゃないとはどういうことだ。何が「かけがえのない宝物は地球だ家族だ」だよ。言うなよ言わせんなよ恥ずかしい。

 

それで「宝島」のモチーフは本当にモチーフでしかなくて、映画の本題には一切出てこない。何それ、子供舐めてるでしょ。「それっぽい映画だからいいでしょ星野源だしー」じゃないよ。星野源だけでしょ。


いろんなレビューにもあったけど、「家族の確執を描きたくて冒頭ののび太の家族のやりとりを入れたんだろうけど、それが不十分すぎて何が言いたいのかわからない」っていうのは本当に致命的だと思う。具体的には「夏休みの宿題をやってからどこかに行きなさい」というママに「パパならこの気持ちわかるでしょ」とのび太が甘えると「宿題はやったほうがいい」と答えたパパにのび太が逆ギレっていう展開。これは旧作ファンなら「海底鬼岩城だワクワク」となるところで、鬼岩城だとその後のび太は皆の協力もあって必死に宿題を片付けてから海底キャンプに出かけるんだけど、今作でそれはない。ただのび太が不貞腐れただけで終わり、この段階でこの問題を解決するどころか問題が置き去りになっている。この時点で映画としての信用がなくなる。


その後、まぁいろいろ楽しいシーンは出てくるんだけど楽しいのはシーン単発で物語としてはのび太の宝島問題と全く離れたところに向かっていく。それで一応海賊は出てくるんだけど、彼らは何故海賊しているのかとかそういうのは全く問題にならないで、急に地球のエネルギーがどうとかそういう話になる。しずかちゃんのそっくりさんに至ってはもうこじつけレベル。コジツケールを使用したのかな。


「よし南の島で海賊とドラえもんたちが戦って……」
「ちょっと待て。最近のチルドレンは海賊と言えば手足が伸びるとか喋るトナカイとか思ってるんじゃないか」
「それか呪いの金貨で不死身の存在になったと思っているか」
「これでは『宝島』の話を理解してもらうのにまず宝島の説明をしなくてはいけないではないか」
「いっそ時空海賊とかにして略奪シーンなどはない方向で」
「いいね!」
「あと親子連れが来るから親子系の感動は入れて」
「いいね!」
「剣の戦いはお母さんたちに不評になりそうだからパソコンバトルみたいなのは斬新でいいかも」
「いいね!」
「最後にのび太が自分で頑張ったみたいなのが入ればなんか感動するでしょ!」
「いいね!」


みたいな会議があったのかどうかはわかりませんが、大体こんな感じです。なんかね、全ての要素が悪いわけじゃないのにちぐはぐでまとまりがないんですよ。後半の親子喧嘩のシーンは飽きてつまんなかったです、本当に。


そしてこれもいろんなレビューにあったんだけど、「それをドラえもんでやる意味はあるのか」一点に尽きるわけですよね。親子の感動系なのはわかった。だけど、だけど。それってドラえもんでやる意味あるの? 今回の戦いでドラえもんあんまり関わってないじゃん。それにのび太の冒頭の謎のパパdisがこのためにあるってわかった途端「うまい伏線」じゃなくて「無理やりなエピソードの挿入」にしか見えない。


客層を意識してるのかどうかわかんないけど、ゴリ押しの親子感動系、しかも後半台詞だけで何とかするって、もうあんまりだよ。亡くなった奥さんもどこかで聞いたことある台詞だし、父子バトルも取ってつけたような感じだし、何よりこの親子喧嘩自体が映画のテーマなんだろうけど、まるで親子に感情移入できなくて(それは冒頭のシーンで滑ったせいなのが大半だと思う)ラストが本当にしれーっとしてしまった。海底鬼岩城ののび太はなぁ、一応夏休みの宿題全部終わらせてから冒険に出かけたんだぞ……。


とにかく、シーンひとつひとつはそんなに悪くないのに全体がガタガタで映画としてはうーんという感じ。ドラえもんでやりたいことは何ですか、というのをもう一度問直したい。NOT FOR ME ってことですかね。ドラえもんの映画は子供がドキドキワクワクするもんであって、親が涙するもんじゃないと思うんだよ……ドラえもんの世界はやっぱりドラえもんで完結してほしいんだよ……ううん……おわりぃ……。

 

感想「ピノッキオ」

オッサンでもピノキオになれるんや!

 

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【あらすじ】

暴れん坊の丸太を元に作られた人形、ピノッキオはいたずらが好きで、父親のジェペットを困らせていた。学校に通うという約束を忘れて遊び、失敗ばかりする。そんなピノッキオを見かねた妖精は彼を助け、嘘を着くと鼻が伸びるようにする。そして人形ではなく本当の子供にすると約束する。


【感想】

この映画、ずーっと昔に昼間テレビでやってた何かで最後のほうをちらっと見た記憶があって、いつか全部みたいと思っていたのが何とか念願叶いました。そういうわけで結構懐かしバイアスかかった記事になってます。


最後まで違和感なく見れたのはそういう「前情報」があったからなんでしょう。でもなんにも知らなくて「わーいピノキオの映画だー」って無邪気に見始めたら、間違いなく「何でピノキオがオッサンなの!?」ってなるだろうな。なっちゃたら、もう見てられないだろうな。うーん、難しい。


しかし、ピノッキオが「かわいくない」というのはある意味「ピノッキオの冒険」という物語では非常に大事な要素だと思うのね。子供だから「かわいい」で許されるところをオッサンが全身全霊でいたずらしてるから全くかわいくない。そもそも原作自体はどちらかというと残酷だし、ディズニー版では適当にやってるところも本作ではしっかりやっているのでそこを見るのがこの映画の大前提だと思う。


そもそも「ピノッキオの大冒険」自体風刺が強くて、「悪人は裁かれる」というものではなく「悪人もいるから騙されないようになれ」というのがメインテーマだと思う。善悪の判断ができない人形がいいように騙されたり、不良に入れあげちゃったりするのが本当にリアルでちょっと怖い。特にこの映画のルシーニョロの扱いがかなりリアル。そこを踏まえるだけでもこの映画の価値はあると思う。


そしてルシーニョロを加えることでロベルト・ベニーニピノッキオを演じる意味が出てくると思った。この映画は子供のピノッキオではダメというか、ルシーニョロを子供が演じるのはかなり辛いものがあると思う。


このルシーニョロ、劣等生で盗みなどを繰り返す典型的な不良で牢屋でピノッキオと出会って意気投合する。この意気投合のシーンがめちゃくちゃリアルで胃が痛くなる。善悪の判断がつかない人間が不良に感化されるシーン、めちゃくちゃ怖い。子供だと「子供だから」で終わっちゃうけど、大人が演じることでその生々しさがぞわぞわ滲み出てくる。


最終的にルシーニョロは誰にも助けられず、ロバの姿のままピノッキオに看取られる。この救いのなさったらなんとも言えない。「悪いことをしたらロバになっちゃいますよ」って、もうそういう小言をリアルでやっちゃったらこうなるって感じ。もう辛い。おもちゃの国行きの馬車に乗った時点でこうなることはわかっていたけど、それでも辛い。どうすれば彼を助けることができるのだろう。多分現代になっても誰も助けてくれない。子供は可愛くないと救済リストに入らない。可愛くないクソガキは救われない。辛い。


その辺も大人が演じていることで「これはお話ですよ」という了解が暗黙のうちに生じて、安心して映画を見ていられる。これがリアルな浮浪児っぽいのがやってたら滅茶苦茶辛い奴じゃん。なんでもリアルにすりゃあいいってもんでもない。解像度が低い映像のほうがある意味都合がいいってこともある。


全体的にコンテクストが貼られた演劇テイストの作品なのでそういうのに慣れていないと「オッサンが!」になっちゃうけど、オッサンはオッサンでピノッキオになったっていいと思った。プリンセスにでもプリキュアにでもなったっていいじゃない、オッサンだもの。


今回見て思ったのが、何となく発達障害の子供を持つ親が見たらちょっと辛いのかもしれないなぁということ。善悪の判断が付きにくく、常に動き回っていて興味のあることに全力で向かって行き、後で反省しても繰り返してしまう。それを「親のせいだ」とバッサリやるからなぁ。


そういえばディズニーの実写映画でピノキオをやろうとしているらしいけど、アナ雪の実績からこれはもう原作とは一体何だ、という超新感覚アドベンチャーになるしかないと割り切っているのである意味楽しみです。だって今のご時世、「騙される方が悪いんだ」なんてメッセージ、かなり無理。そこをどう改変してくるかで世界をどうしたいのかがわかると思う。無理矢理父子ものにしようとしてるけど、かなりキツイぞ。あっ、これジェペットメインでピノキオを我が子と認めるかどうかとかで悶々とする奴でしょ。あんまり期待しないんだからね! (ダンボで期待しすぎた人より)。