傍線部Aより愛を込めて ~映画の傍線部解釈~

主にひとり映画反省会。人の嫌いなものが好きらしい。

感想「ライフ・イズ・ビューティフル」

 嘘を嘘と信じてしまうと(希望を持つことは)難しい。

 

 

【あらすじ】

 第二次大戦前のイタリア。ユダヤ人のグイドは小学校教師のドーラに一目ぼれし、猛烈なアタックを仕掛け、彼女と結婚して息子ジョズエを授かる。やがて始まった戦争にドイツ軍に連行されたグイドとジョズエ。グイドはジョズエを不安がらせまいと収容所内での生活はゲームであり、1000点もらえたら本物の戦車がもらえると言う。

 

 【感想】

 父子ものド直球の涙腺崩壊ものです。その他に、この映画にはユダヤ人の収容所ものという特色もあります。ただ、あくまでもメインは父子の絆であり当時のユダヤ人の置かれた状況という意味はそれほど強調されたものではないと思いました。

 

 というもの、収容所での生活に悲壮感を一切感じないのはグイドが頑張っているからというより、意図的にそういう画面にしないようにしているという感じがしたからです。どうしようもない絶望が画面内にあって、それを見ないふりをしているグイドたちというより最初から画面に絶望が見当たらないのです。当事者は絶望とか知らないけれど画面の隅っこからどうしようもない絶望が立ち上る映画と言えば『縞模様のパジャマの少年』なのですが、あっちは収容所メインで少年たちの交流は副次的なものだったのでそういう画面になっていたのかもしれません。

 

 あくまでもこの映画の主役は「どんな状況でも希望を失わず諦めないグイド」なのです。前半のハチャメチャな求婚劇で彼の性格をがっちりと観客にわからせておいて、だんだん不穏になる展開でも観客は「でもグイドならきっとなんとかしてくれる」と彼と一緒に希望を持つのです。根拠はないけど「大丈夫」と思わせるような勢いだけが画面から伝わってくるのです。それは息子を不安がらせまいと精一杯のグイドの親心で、強烈な親心の塊でこの映画は出来ています。

 

 そしてこの映画では決定的な暴力シーンはほぼ出てきません。グイドたちが連行された時も荒れた室内で何があったかを観客に想像させたり、グイドの最期に至っては何かあったと言う音のみです。それはグイドの親心同様、どうしようもない絶望をひた隠しにする映画の構造があると思いました。あの滑稽な歩き方をするシーンを観て観客はこれから彼がどうなるのかわかっているのに、それでも「きっと何とかなるだろう」と思ってしまう。グイドの振る舞いは絶望から目を逸らすことで常に希望を与えていたのだ。息子だけでなく、観客にも。

 

 最後にちゃんと戦車がやってきたところで「あ、この映画すごくいい」と思いました。おそらくジョズエは薄々父の言動の裏に感づいていたはずです。あの状況下に放り込まれて父のほら話を100%信じ込むほど幼くはないと思います。しかし、彼は父親の姿勢を見習い「どうしようもない絶望」を「あるかもしれない希望」に変換していたのだと思います。ジョズエが父の言葉を信じれば信じるほど、絶望は二人の前から遠ざかります。だからこそ「父さんは嘘つきなんかじゃなかった!」という無邪気なジョズエの顔が光って見えるのです。

 

 「父子もの」「収容所」というだけで大体の結末がわかってしまうので展開自体には泣けませんでしたが、細かいところで結構光るものがボロボロある映画だと思いました。やっぱり「名作」と呼ばれるものはそれなりの理由があるなと思いました。おしまい。