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傍線部Aより愛を込めて ~映画の傍線部解釈~

主にひとり映画反省会。人の嫌いなものが好きらしい。

感想「チャッピー」

 銀河鉄道に乗る必要はなくなった。

 

 

【あらすじ】

 ヨハネスブルグの警察では治安対策のために人工知能を搭載した警官ロボットを導入していた。その人工知能の開発者ディオンは新型の人工知能の実験をしたいと会社に申し出るが、兵器の開発をしている会社では不適切と却下されてしまう。諦めきれないディオンは廃棄処分の機体をこっそり持ち出すが、そのまま警官ロボットの秘密を知りたがったギャングに誘拐されてしまう。なし崩しにディオンは「人間と同じ心を持つ」人工知能を機体にインストールする。

 

 【感想】

 あの『第9地区』の ニール・ブロムカンプ監督の作品と言うことでワクワクしてみたのですが、やっぱりよいですね。年末に見て清々しくなった映画です。

 

 ヨハネスブルグのヒャッハー具合とかロボット警官のディストピア具合とかクソみたいな悪役とか、そういうのもかなりいいのですがもうチャッピーがかわいいに尽きます。「パパの車盗ったな!」と言いながら車を破壊するチャッピーが最高です。

 

 他にも憎めないギャングたちもいいし、何より私利私欲にしか走っていない悪役の外道っぷりも最高です。いろんな映画を見てきたつもりだけど、こんなに悪い奴はそんなにいない。 でもチャッピーが許しているから、許してやろう。

 

 終盤のどう見てもスーパーロボット大戦みたいな展開はかなり燃えるのですが、この映画のテーマは「人工知能の成長」と「人工知能と人間の違い」です。少しずつ育っていくチャッピーは最初のうちこそロボット三原則を懸命に守ろうとしていましたが、ギャングたちに真に迫った選択肢を尽きつけられるうちに自ら「現金輸送車の強奪」という犯罪の手伝いをすることを選びます。これはチャッピーがプログラムではなく、自分の意志でやることを決めたと言うことだと思いました。そんなチャッピーを見て、ニンジャはチャッピーを利用するのではなくひとつの人格として接するようになります。人間も人工知能も誠実さが大事ですね。

 

 この映画の心を打たれる場面は、やっぱりチャッピーがヴィンセントを「許す」というシーンなんですよ。まだ何も知らなかった頃に捕まえて散々馬鹿にされたり、親代わりのヨーランディとアメリカを殺して創造主のディオンに瀕死の重傷を負わせたヴィンセントに渾身の打撃を食らわせ続けるチャッピーの悲しさと言ったらない。「何故傷つける!暴力はよくない!」と言いながら天井にバンバン投げつけていることの意味くらいチャッピーもわかっている。本当は命を奪いたいくらい憎いはずなのだ。だけど、チャッピーはその感情の意味も理解しているので「お前を、許す」と言う。もうこの瞬間のチャッピーを抱きしめたい。

 

 でも、この映画は単純に「チャッピーかわいいねよかったね」では終わらない。最終的に瀕死の重傷を負ったディオンと死んだはずのヨーランディは「意識」をロボットの身体に移植されて復活する。要は「機械を人間に近づける」の究極がチャッピーであったのならば、ディオンとヨーランディは最終的に「人間が機械になる」というところへ行ってしまった。もうこれは「意識とは何なのか」「意識が人工知能と人間が同等になった場合、人間の存在意義はどうなるのか」という問いかけに他ならないと思う。「外側が問題じゃない、このボディーは一時的なもの」と繰り返しヨーランディはチャッピーに話しかけていたが、それは普遍的な「死」という概念を教えていただけだった。それをチャッピーは否定して、「人工知能に出来るなら人間にも出来るに違いない」と意識をロボットに移植すると言う大胆な方法をとる。

 

 結局私たちは「人工知能」が生まれて成熟したらお払い箱になるのか、それとも彼らの良き隣人になるのか、それはそういう社会が来ないとわからない。チャッピーのように慈悲のある人工知能が生まれてくれればよいのだけれど。

 

 それから日本で話題になった例のちょんぱカットシーンはあからさまにカットされていてちょっと面白かったです。アメリカの存在意義があれで5割くらい消えたと思っている。かわいそうなアメリカ。