傍線部Aより愛を込めて ~映画の傍線部解釈~

主にひとり映画反省会。人の嫌いなものが好きらしい。

感想「隣の家の少女」

 だれもしんじない。

※この作品はあらすじや感想を読むだけでも気分が悪くなる可能性があります。

 

 

【あらすじ】

 1958年、少年デヴィットは隣の家に預けられた姉妹の姉メグが気になる。しかし足に障害のある妹ジェニーをかばうためにメグは伯母のルースから地下室に閉じ込められ、激しい虐待を受けることになる。虐待はルースの実子や近所の子も加わり、どうすれば彼女を救えるかデヴィットは模索するがその間にも暴行はエスカレートしていく。

 

 【感想】

 見てしまった。

 

 そもそも、この映画を見ようと思った動機は『籠の中の乙女』を見たいなぁと思ったのが始まりで、「そういえば似たようなタイトルの映画があったなぁ」と思ってレンタル屋で『ゴーンガール』と『隣の家の少女』とチョイスしたのです。全てを見た今なら言える。ばかやろう。特に『ゴーンガール』からの『隣の家の少女』はきつかった。ひどかった。

 

 そして『隣の家の少女』について何となくタイトルだけ知っていて「なんかすごいらしいよ」ということしか前情報がなく、映画の分類も「スプラッタ」だったので「ああ、きっと隣の家に住んでいるカワイイ金髪のお嬢ちゃんがサイコパスで夜な夜な地下室で大人たちを惨殺する映画なんだなぁ」とか愉快な映画を想像していたのです。ここだけ見ると『ハロウィン』ですね。『ハロウィン』は面白い。レンタル屋なんだからパッケージで内容を確認しないのかって? 残念ながらあまりそういうことはしないんだよ……映画を見るときはセレンディピティと直感を信じているので。

 

 内容の話に戻ると、とにかくひどかった。救いがないし、「だから何だ」という感覚が強い。観客の代弁者になるデヴィットがいることで客観的になることができず、主人公と一緒に無力感に襲われる。「あの時こうしてればよかった」「もっとなんとかできたのではないか」という後悔だけが残る結末となっていて、フィクションという感覚が薄くなる。それもそのはずでこの事件は実際に起こったものをもとに書かれている。実際は救いの手を差し伸べる人物はいなかったようで、彼女が見つかったのは死んだ後であったそうだ。映画の中だけでも「夢」を見れたのはよかったのだろうか。

 

  そういう思いを観客に引き起こさせたなら、この映画は映画として優秀なのだろう。淡々とした描写のはずなのに、非常に後ろめたい気分になる。支配者であるルースは何故子供たちを支配したのだろうか。一歩引いてみればおばさんの一人くらいどうってことはないのに、ルースの存在が全ての子供たちが非常に恐ろしい。自分の親にもメグがどういう扱いをされているのか言えず、主人公以外は罪悪感すらなくなっていた。

 

 画面には言うほど気持ちの悪いシーンはありません。ただ、淡々と人間が傷ついて汚くなっていく様子だけです。この映画、直接描写する痛々しい暴力シーンはあまりないのです。ひたすら間接的に、メグやルース、子供たちの顔や仕草を映すことで「何か」をしていることだけを見せていく。性器をいじめる類のものが多かったので仕方ないのかもしれない。それにしてもあんまりないじめ描写だ。

 

 やはり中途半端な「救い」というのが絶望の元なのかもしれない。これが隔絶した画面の向こうの世界であればこれほど嫌な気分にはなっていないと思う。この映画最大の罠は主人公デヴィットやちらちら登場する警官であって、観客は「もしかしたら何とかなるかも」とハラハラしながら見ていくことになる。それがよくない。期待はしなかったけれど、そういう淡い希望はどうせ裏切られるのだ。それがわかっていても、絶妙に「助かるかも」と思わせる演出は卑怯だ。

 

 日本版予告にスティーブン・キングが「これはスタンド・バイ・ミーと対極になる」というようなことがあったけれど、この前『スタンド・バイ・ミー』を見たばかりなのでそれは強く思った。どちらも50年代のアメリカの田舎町の話。悪い意味で「田舎」は不良のたまり場で、悪いものがあるとどんどん悪い方に感化されてしまいやすい。孟子の母親じゃないけれど、子供のためを思うならこういう環境に置かないようにしないといけないのかもしれない。難しいけれど。

 

 これを見ながら「女子高生コンクリート事件」や「尼崎の連続失踪事件」を思い出していました。この映画も思い出した事件も、全て主犯に同調する取り巻きがいなければここまで悪化することがなかったものだ。洗脳というとあまりピンと来ないだろうけど、非常に恐ろしいことだということをもっと考えないといけないなぁと思いながら、心が沈んでいくのを感じました。虐待、ダメゼッタイ。周囲が許すのもダメゼッタイ。