傍線部Aより愛を込めて ~映画の傍線部解釈~

主にひとり映画反省会。人の嫌いなものが好きらしい。

感想「紀子の食卓」

 あなたは、誰の関係者ですか?

 

紀子の食卓 プレミアム・エディション [DVD]

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【あらすじ】

 17歳の紀子は理解のない父親の束縛から逃れ、東京へ家出してきた。頼るのは「廃墟ドットコム」というサイトで知り合った「上野駅54」のハンドルネームを名乗るクミコ。後を追うように消えた妹のユカと紀子の行方を追う父徹三。徹三は新宿で起きた集団自殺事件と「廃墟ドットコム」の関連を追い、クミコが「レンタル家族」と称して紀子とユカを役者にしていることを突き止める。

 

【感想というか考察】

 エグイ。

 

 観終わった直後の感想は正直に一言。正直エグイ。「お前は言っちゃあならねえことを言ったべさ!」という感じ。血しぶきブシャーなんていうレベルじゃない。精神的ブラクラを見た気分。本当にそんな感じ。

 

 本作の中心は「家族とは」「役割とは」というところでしょうか。大きく登場人物を紀子、ユカ、クミコ、徹三の四人に分けてそれぞれの視点でモノローグを入れてそれぞれの立場をよく見えるようにしてあります。しかし途中まで徹三の行動はユカの妄想だったり紀子とクミコの思考が交差しているような場面など、誰が何を思っているのか非常に入り組んだ構造になっています。そんなごちゃごちゃとした中から「役割」の話が浮かび上がってくると非常に恐ろしい絵が見えてきます。

 

 この映画には食卓を囲むシーンがたくさん出てきます。「一緒に食事をすること」こそが家族の証明であるかのように。冒頭の紀子の本当の家族の食卓に完璧なレンタル家族先でのおいしそうな食事。紀子の仕事としての食卓。そして集大成としてのクライマックスの「幸せな家族の食卓」に至るまで、様々な食事風景が浮かんできます。『冷たい熱帯魚』の時もそうだったのですが、「もう既に崩壊している家族の気まずい食卓」を描かせたら園子温の右に出るものはいないんじゃないかと思う。あんなにおいしそうじゃないハンバーグの撮り方、なかなかできるものじゃない。

 

 その後に出てくるおいしそうなケーキと紅茶。豊かな家族としての「食卓」に紀子は本物の家族以上の「家族」を見てしまい、この稼業にのめり込むことになります。その後仕事で出向いた中年男性の家でも、男の手料理を食べます。例え「レンタル家族」であっても、一人暮らしの男の手料理はあまりおいしそうに見えない。そこで男が「今はこのくらいしか出来ないけれど、今度からおかずをもっと増やすからな」と言う。そこで終了の時間になり、クミコはさっさと清算を始めるけれど紀子は役割に入りすぎて「もう少し『家族』でいたい」と訴える。この時から紀子は紀子ではなくなり、役割を受け入れるだけのミツコになっていく。

 

 結局紀子が受け入れたのは、インターネットの向こうの虚構の理想だった。「私はこんなんじゃない、こんなところにいるはずの人間じゃない」ということを必死で追い求めた結果がクミコだった。クミコはコインロッカーに捨てられていた経歴があり、あらかじめ与えられた虚構の人間関係でしか繋がりを持てないでいた。「本当の家族よりも家族らしい」として家族ごっこをする彼女たちを見ていると、本当に家族とは何なのかわからなくなってくる。

 

 伊豆の実家で、紀子たちの母親妙子は油絵を描いていた。それはとても楽しそうな家族の絵なのだけれど、モデルにしている写真の娘たちの表情は絵に比べて晴れやかでない。この映画はモノローグ形式なので主に紀子とユカが父親に対しての不満を持っていると言う描写が多くなるけれど、客観的に見れば実はこの家族の元凶は母親なのではないかと思う。実は徹三も愛する妻の好きな夫でいようと演じていたのではないか、というのが油絵のやりとりで垣間見えたような気がした。娘が失踪しても役割を演じることが出来ていた徹三に対して、妻妙子は精神不安に陥りかつて描いていた理想を塗りつぶして自ら命を絶ちます。「絵に描いたような幸せな家族」を欲していたのは徹三ではなく妙子だったのではないか、と後半の徹三を見ると思うのです。虚構を欲するあまりに理想が叶わないと悟って自ら死を選んだ妙子に代わって虚構でしか生きられないクミコが家族の代理として入るのは、非常に皮肉な話です。

 

 この映画で一番怖いシーンは、クミコの母親がクミコのことを知って「やり直したい」と謝罪しに来るシーンだ。泣いて謝る母親にクミコは「私の方がもっといい母親を演じることが出来る」「本当の母親なのに母親の役割が果たせない」と言ってのける。実の母親を「母親」ではなく、「母親の演技をしている女」としか認識できない彼女が非常に恐ろしい。随分といろんな怖い映画を見てきたけれど、今のところこのシーンが精神的に一番怖いシーンだと思う。

 

 後半、徹三は娘を取り戻すために計略を練って再び「家族」のやり直しをしようとします。そこでこじれた関係が簡単に修復できるはずがなく、さながら「ファニーゲーム」のように巻き戻しが起こって巻き戻された「家族」は非常に家族らしくすき焼きを囲みます。

 

 後の『地獄でなぜ悪い』もそうなんですけど、園子温監督にとって内心の激しい葛藤は血飛沫飛び交う刃傷沙汰で表現されていると思うのです。つまり、いくら巻き戻された家族の団欒がうわべだけの取り繕ったような幸せを演出していたとしても、その根底には父親が心中を企てているような世界が眠っている。血飛沫の世界は演出された世界の裏返し。誰だって血飛沫の世界になんて生きていたくない。だけど、それを見ないことにしてしまうと心が空っぽになってしまう。誰でもなくなった紀子のように。

 

 最終的にユカは誰でもない自分になるために早朝家を飛び出し、紀子は紀子でミツコではなく「紀子」として生きていこうとする。でもそれは親子の本当の絆が芽生えたからではなく、役割を受け入れたというだけのこと。本質なんてすぐに人間は変わらない。ただ紀子はユカの役割をユカから引き継いだだけ。役割を演じる家族が存続していくことには変わりない。

 

 この映画で「役割に縛られず自由に生きている」人の象徴としてみかんちゃんという紀子の同級生が出てくる。みかんちゃんは本名ではなく、コスプレ風俗でバイトをしている。彼女は「みかんちゃん」「お店でなりきる人」という面を持っていても、いつも変わらず「私は私」という確固たる自己があった。「尊敬するのはみかん」というのは、実は「誰かになりたいと思っていない」という暗喩なのではないだろうか。何かになりたいわけではない。そんなみかんちゃんがこの作品の救いであった。

 

 結局自分は自分でしかなく、どんなに役割を演じていても自分から逃れることはできない。紀子が逃れたかったのは父親ではなく、ふがいない娘と言う役割の自己からの脱却ではなかったのだろうか。言い換えてしまえば、一連の出来事は全て紀子の通過儀礼でもあり、大人になるために「紀子」を捨てて「ミツコ」になり、再度「紀子」になることが出来たということなのかもしれない。確固たる「私は私」の前に、演技をしている者は弱い。だけど「演技をしているのに自覚のない者」は同じステージに上がることもできない。「私は私」の前に、演技をしている弱い自分を見つけることが大事なのではないだろうか。この映画はそんなことをつらつら考えてしまうほどエグイ。エグイので、いろんな人に見てもらいたいと思いました、おわり。