傍線部Aより愛を込めて ~映画の傍線部解釈~

主にひとり映画反省会。人の嫌いなものが好きらしい。

感想「未来世紀ブラジル」

 正直「俺はとんでもない映画を見てしまった」としかいう感想しかない。

 

 

【あらすじ】

 どこかの国の超管理社会。情報省はテロリストの疑いのかかる「タトル」と間違えて「バトル」を逮捕する。サム・ライリーは記録省に勤める役人だが、出世願望は全くなかった。ただ、彼の夢では空飛ぶ騎士で、謎めいた美女が毎夜登場していた。ある日「タトル」と「バトル」の誤認逮捕事件に関わることになったサムは、夢に現れる美女がこの事件と密接に関係していることを知り、情報省へ転任する。


 【感想】

 映像の暴力。

 二度目のタトル登場シーンあたりでふっとそんな言葉が浮かびました。とにかく話の内容も悪くないんだけど、この映画は圧倒的な映像の力だと思ったのです。正直、サムの夢の映像も街並みもすべてが張りぼてのようで気持ちが悪いのです。しかしところどろこに現れるダクトがごちゃごちゃしていることで映像に質感を与えてしまっている。おまけに独特の埃っぽさで「リアリティ」というものを表現している気がしました。

 ドラえもんスネ吉兄さんが「ジオラマ撮影に必要な三感」として「質感・距離感・量感」を取り上げていましたが、その後「質感」としてのび太が「とりあえず汚しておくかな」「とりあえずペンキ塗りたてのおもちゃにはみえない」としていることから、割と画面を汚す手法は「リアリティ」を表現しているんだなと思っています。最近どっかの知事が「某大河は画面が汚い」とおっしゃられていましたが、スネ吉兄さんに言わせると「質感ゼロ!」です。

 でも、この映画の不思議なところは背景がやたらと張りぼてっぽく作られているところで、もう少し頑張れば街並みだってもっとそれっぽく撮れたと思うのに、背景の質感と量感が全くのゼロなのです。「低予算w」と言われればそれまでなんですが、この映画のテーマと関連させると恐ろしい方向にしか行きません。

 この映画の軸は「管理社会の束縛」と「夢の中での自由」という二つの世界を行ったり来たりします。サムは現実では野心を持たない小市民として存在していますが、夢の中では空も飛べる騎士なのです。現実では母親に意見ひとつ言えないのに、夢の中ではモンスターも次々とやっつけてしまう。最終的に現実を変えようと奮闘した結果、彼は永遠に夢の世界に旅立ってしまうのです。つまり、映画全体の張りぼて設定は「所詮全部夢の世界と同じ作り物なんだよ」という監督からの痛烈なメッセージと言うことではないのでしょうか!? 違いますかね、ハイ。

 あと近未来ディストピア大好きっ子なのでちょいちょい出てくるギミックだけでお腹いっぱいです。配線だらけの電話とか、グネグネしているダクトとか、全自動朝の身支度整え機とか、管理職に必要な道具とか、母親の美容整形とか、歌う電報とか、気持ち悪いお面とか。歌う電報が個人的にツボでした。他の仕掛けがいかにもなディストピアなのに対して、この仕掛けだけどうして何をしたいのかよくわからない具合が大好きなのです。

 でも一番好きなシーンは「拷問寸前にタトル一味が降りてくる」夢の始まりのシーンです。一気に画面がバカバカしくなって、妄想と現実がごちゃごちゃになってきて、タトルが消えるシーンあたりで「これはもう現実じゃないな」と直感で判断できないとこの後のシーンがわけわからないものになってしまうのです。実際その後やりたい放題でシーンを重ねるにつれて「監督話をきれいにまとめるつもりがないだろう」といい意味で呆気にとられてしまいました。夢だけど、夢じゃなかった!的な。

 この映画の楽しみ方は、とにかく映像に身をゆだねることです。深い意味を考えてはいけません。感情移入とかそういうのをしないとサムはただの現実と夢の区別がついていないアホです。巻き込まれたジルは運命の女性でもなんでもありません。ヘルプマンもただの打算的なオッサンです。この映画はストーリーではありません。未来っぽい夢の話です。タイトルの意味も深く考えてはいけません。ただメインテーマが「ブラジル」という曲だからです。1984年が元ネタだって? 確かに超管理体制で公務員が女に夢中になって政府に捕縛されるあらすじは一緒だけど、「全ては夢物語」という点において決定的に違うと思うのね。

 最後に、サムがジルと結ばれるシーンで華麗にルパンダイブを決めているように見えるのですが、あれは普遍的な男の欲望的な何かの表現なんでしょうか。それともオマージュなんでしょうか。それが気になるところです。