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傍線部Aより愛を込めて ~映画の傍線部解釈~

主にひとり映画反省会。人の嫌いなものが好きらしい。

「かぐや姫の物語」時代背景解説編


さて、今回で「かぐや姫」シリーズは最後にしようと思います。


最終回は「時代背景がわからないとなんだそりゃ?」の部分を解説してみようと思います。
もちろん視聴後前提で解説しますので当然ネタバレだらけです。



 こういう時代ものを現代の感覚で見てしまうと大変なミスリードをしてしまうことがあります。そんなわけで時代背景を踏まえつつ、「そりゃないよ」と思う場面を見ていきましょう。ちなみに、ほとんど聞きかじりトーシロの話なのであんまり真に受けないでください。そして「時代考証のそれは違うよそれは!」というツッコミがあったらください。



一、翁は何故変わってしまったのか。


「お金や権力が手に入ると人はこうも浅ましくなるのか……」では現代的価値観から脱却できていない。特に名づけの宴で姫が嫌がっているのにだらしなく宴会を開くとは姫の気持ちを全く考えていない! と翁に非難が浴びるようになっていますが、実はこれは翁は翁で一世一代の大勝負に出ていたのです。


 原文ではこの宴をこのように書いています。

「この程三日、うちあげ遊ぶ。よろづの遊びをぞしける。をとこはうけきらはず呼びつどへて、いとかしこく遊ぶ。」(この三日くらい、盛大に音楽を演奏などして祝う。様々な方法で祝い、男は誰でもえり好みなしに呼び集め、たいそう盛大に祝った。)


 当時の貴族の幸せとは、一族を出世させることに他なりません。何か手柄を立てればよいかと言うと、それだけでは上がれる階級に限度があります。そこで貴族たちの一番の出世の方法は「良家と結婚する」ことでした。何より血筋がモノを言う時代でした。血筋がよいと最初から就ける官位も良いところからスタートできます。自分はダメでも、子や孫が出世できればそれでよいのです。

 そのために特に娘は大事でした。少しでも身分の高い家と婚姻させるために礼儀作法や教養を生まれたころから叩き込みます。特に教養は大事で、琴や琵琶、手習い(習字)や和歌などのお稽古は欠かせません。衣選びのセンスも大事で、顔を見せない代わりに牛車からチラリと見せる服の裾でハイセンスさを男性にアピールするのです。


 相模が「高貴な姫君は二本の足で歩くのではなく、膝を立てて移動するのです」と言っていましたが、実際に高貴な姫君はほとんど家の外に出ないで、几帳(貴公子と会う場面でかぐや姫が入っていたところ)の中で文を書いたり絵巻物を見たり、季節の庭を眺めたり女童のような女房とおしゃべりをしたりして過ごしていました。だから肌は真っ白、どちらかというとふっくらとした体つきになります。当時はこれが美しいとされました。


 翁の話に戻りましょう。翁は「かぐや姫の幸せを願って」と繰り返していました。当時の幸せはそういうわけで「少しでも身分の高い人と結婚して子供をもうける」ことだったのです。特に帝と結婚して皇子を生むことは大変名誉なことで、女性として最大の幸せとされていました。当時の常識的な幸せを翁は望んだのです。しかも月からの仕送りという後押しもあり、『常識的な幸せ』を得るために奔走していただけなのです。「彼女のしたいようにさせてやれ」という考え方そのものがあり得なかったと思った方がいいですね。


 三日三晩続いた宴も、成り上がりの翁が貴族たちに認められるために贅の限りを尽くして見せなければ「なんだここの姫様は大した器じゃないな」と思われてしまいます。父親の身分、つまり経済力が何よりも大事なのです。ここで舐められたら姫に興味を持つ男が現れず、常識的な幸せはありません。この宴を開いたことで五人の貴公子から求婚をされるので翁としては「大成功」に終わったはずなのです。




二、疾走シーンの後、急に戻ってきたあの演出の意味は?


 「そういう演出なのだなぁ」と漠然と取ってしまってもいいのですが、せっかくなので当時の常識を踏まえてあのシーンを分析してみましょう。


 「あくがる」という言葉があります。現代の「憧れる」と同じ意味なのですが、もともとの意味は「魂が身体から離れる・うわの空になる」という意味です。何か強い感情がもとで気持ちが落ち着かず、「心ここに非ず」の状態を指しています。


 あのシーンでかぐや姫は自分をモノのように扱う男たちの話を聞いて激情に駆られます。その瞬間「魂」が身体から離れ、心が引かれるままに生家まで魂だけが飛んで行ったと考えるのが最も自然な解釈です。そもそもどんなにかぐや姫がお転婆で走るのが好きと行っても、肉体を持ってあんなに走り切れるはずがありません。


「ちょっと待って、あそこの家にいた人や炭焼き職人には姿が見えていたじゃないか」と思うかもしれません。「魂は目に見えない」というのも現代の考え方で、昔はその辺結構アバウトでした。「もののけ」という類で片付けられていたようです。


 余談ですが、捨丸とのランデブーも「あくがれ」状態だと思っています。走り出したあたりから捨丸の魂を連れてどこかに行こうとしていてもおかしくありません。そうやって考えると「コワイ童話」系になるのでこの辺で。



三、御門の行動キショイ。顎がキショイのはいいけど、夜這いキショイ。


 確かにいきなり見知らぬ男性が後ろから抱きついてきたらかぐや姫のようにビビるのは間違いありません。ただ、これは当時は当たり前のように行われていました。


 ある程度身分のある女性だったらいざ知らず、侍女の手引きなどで強引に関係を迫る男性も当時はたくさんいました。「男が几帳の中に入る=性交」なのです。ここまで来ると女性に拒否権はありません。ヤられるしかありません。しかし、大体このように迫ってくる男はよっぽどのことがない限り身分の高い男性ですので、半分あきらめのようなところもあったと思います。ちなみに、夜の闇にまぎれてやってくるのでこのようなシステムでは人違いも相当生んだと言います。特に姫だと思ったら御付の年増女房だったとか、そういう話もたくさんあります。


 さて御門ですが、いわゆる最高権力者です。もちろん入内(御門の妃になること)を断るのは簡単に言って国家反逆罪です。翁がビビるのも仕方がありません。ところがかぐや姫は「御門の妃になるのなら死ぬ」と言います。


 原文でもこのくだりはあります。

「もはら、さやうの宮仕へ、仕うまつらじと思ふを、しゐて仕うまつらせ給はば、消えうせなんず。御官爵仕うまつりて、死ぬばかりなり」(もし、帝の元に出仕することを御受けしないという思いを、無理に出仕させなさったならば、死んでしまいましょう。官職や位階を翁のためにご奉仕して、死んでしまうだけです)



 そこで御門が「じゃあ見てみよう」と翁の家に行き、無理に連れて行こうとするのも同じです。原文ではかぐや姫が逃げるシーンは以下のように書いてあります。


「このかぐや姫、きと影になりぬ」(このかぐや姫は、さっと影になってしまった)


 このあと諦めて帰るのですが、原文ではこの後御門とプラトニックなお付き合いをすることになっています。映画にする都合上の改変とは不自然ではないのですが、出番が大幅に削られた御門がちょっと不憫と言えば不憫です。最後に御門に「あなたの元へいけなくて本当にごめんなさい」と言った形のお手紙を残すというロマンスもあったのに……。
(捨丸のせいでカットか……)



四、結局かぐや姫の「罪と罰」ってなんだったの?


 映画の中では「有るがままに振る舞い貴公子を不幸にした罪」があった。それもあるけれども、天人が下りてくるシーンで確信したのが「やっぱり仏教関係でまとめようとしている」ということ。かぐや姫が語られていたとされる奈良時代は仏教文化が盛んに取り入れられていた時期である。それを踏まえると「罪と罰」はやはり仏教の思想に関係してくるはずである。


 仏教の基本的概念は「生きていることは辛いことであり、修行である」「修行を終えて仏になれば辛いことも苦しいこともない」という概念。生まれ変わりとは「修行に失敗したのでもう一回やり直し」ということなので、仏教世界ではあまり歓迎されることではない。つまり「生きたい」と願うことそのものが罪深いことである。


 おそらく月とは仏教の天上世界であり、つまり悟りを開いて「生のしがらみ」である愛別離苦(愛する人と離れる辛さ)や怨憎会苦(憎んでいるものと出会う辛さ)から解放された人々が住む都なのだろう。そういう感情は修行の中でたくさん経験し、辛いと思う気持ちから解き放たれることが仏教での第一目標なのである。カットされた冒頭では「地上に降りた天人の悲しい記憶を思い出させたこと」「その汚れた地上に憧れを持ったこと」がかぐや姫の罪だとされている。全てを忘れることが目標なのに、わざわざ思い出させるのは確かに良くないことである。


 そう言われてもおそらくピンと来ない概念なので現代社会に置き換えるとこうなります。


 「平和な日本に住んでいるお金持ちの男の子が、アフガン戦争から帰ってきた退役軍人に興味を持ちました。彼は戦争について興味があったので退役軍人からいろいろな話を聴きだしているうちに、『奴らが!奴らが来る!』『テロリストめ!○ね!』と退役軍人は昔を思い出して錯乱してしまいました。ますます戦争に興味が湧いた彼はパパに『戦争に行ってみたい』『銃を撃って戦うとかかっこいい』とか言い出します。もちろんパパは反対します。『それでもこんなぬるま湯みたいな日常じゃなくて、生きるか死ぬかの戦場で生きていたいんだ!』と彼は言うことを聞きません」


 ……これがかぐや姫の「罪」です。仏教の悟りを開いた世界から見ると、地上の悪意や悲しみに満ちた世界は銃弾の飛び交う戦場と大して変わりません。そこに行きたいというかぐや姫に天人パパは手を焼いたことでしょう。


 では「罰」とは?


 もちろん、「人間」として生きることです。辛いことや悲しいことをたくさん経験し、楽しいことや嬉しいことも全て忘れなければいけない。かぐや姫が幸せになればなるほど、彼女の罰は重くなっていきます。きれいな花を見て笑い転げたり、捨丸兄ちゃんと仲良くなればなるほど、全てを手放すことの重みが増していくのです。つまり深読みすると、「かぐや姫が人間らしく生きることそのものが彼女への罰」なのです。 


 全くの余談ですが、天人のテーマで「聖☆お兄さん」のブッダのチャカポコ天女衆を思い出したのは私だけでいいです。



 
 まとめると、「ないわー、ありえないわー」となるシーンも時代背景を考えると全く自然のことのほうが多いということです。むしろ翁が「姫の好きにしたほうがええ」とか言い始めたら逆に時代考証も減ったくれもないのでこのくらいのテイストでちょうどいいし、それに眉抜きやお歯黒も「当時の常識」としてきちんと書いてくれたのは本当に丁寧だと思う。中古王朝ものにどっぷりつかるという意味でも、結構いい映画だと思うのです。



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