傍線部Aより愛を込めて ~映画の傍線部解釈~

主にひとり映画反省会。人の嫌いなものが好きらしい。

感想「カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生」

 長いタイトルの割に評判なので買ってみた。

 

 

 「サブカル好きには突き刺さる一冊」「あるある過ぎて痛い」と言うのでこの体はサブカルで出来てるんじゃないかって思う自分が読んでとことんダメージを受けるのを期待して全編通して読んだ感想は……

 ……サブカル関係ないじゃん。


 ただただサブカルを言い訳にして自意識過剰をこじらせた人の話じゃん。もっとグッサグッサくるかと思ったのに、全然来ないどころか「あるある」過ぎたのが面白くなかったのかも。

 「おおかみこどもの雨と雪」のところで書いたみたいに「どや?俺お前のこと知ってんねんで?どやどや?」っていう作者の思惑が全面に出てきてしまっていたのが辛い。(たぶん作者はそこまで狙って書いているというのも辛い)

 比較的まともに読めたのが最後の「口の上手い売れっ子ライター/編集者に仕事も女もぜんぶ持ってかれる漫画 」これは面白かった。「仕事も女も」っていうところがみじめすぎる。ただ、彼の場合何かをこじらせているところがないのがいい。普通に夢に向かって頑張っている。素直に応援したい。

 ところが表題作以下の作品の「こじれた」人はとことんこじれている。ボケとツッコミがコミュニケーションの全てだと思っているデブ。バンプを聞いて空の写真を撮って浸っているヲタク。どっちも発端は「ダウンタウン」でも「BUMP OF CHICKEN」でもない。当人たちの自意識の問題で、サブカルを隠れ蓑にしている。別に隠れるのはサブカルじゃなくてもアニメでもフィギュアでも何でもよくてただそれに隠れて実力のない自分を強く見せているっていう仕掛け。「平成版山月記」という読み方もあると思うけれども、「虎の威を借る狐の愚かさ」のほうが印象に残ってしまった。それを見て素直に「すげー」って尊敬する気持ちはわかるけど、それを他人に押し付けてしまっている時点ですべてアウト。

 そして最悪なのが表題作の「カフェでよくかかっている~」ここまで最悪だと思わせることにこの話の意図があるのなら、ある意味大成功だと思う。誰一人として救われないどころか、泥沼に引きずり込んでいる感じ。とにかくカーミィの目的は「有名になりたい」ことであって、「歌が好き」でも「みんなに幸せを届けたい」でもない。承認欲求の塊のような勢いで枕営業を繰り返して、身近にあった幸せを見逃して(元彼の彼女を不細工と言ってしまうあたり彼女の底知れなさを感じる)なんとかカヴァーの仕事を一件もらうけど、そこで衝撃の結末。ラストの後味の悪さはオチてるようでオチてない、生々しさ抜群で戦慄。日本中に「カーミィ予備軍」がたくさんいることを暗示していますね。

 正直ミトンまでは許せたんだよ。その後のコメントが、痛すぎて見ていられなかった。「ああ、あのテの人たちはこういう思考回路があったのか」とちょっと納得させられたというか、恐ろしいっていうか。

 さっきから「面白くない」って言っているけど、たぶん面白くないのは必要以上にキャラクターに設定を盛り込んでいないからだと思う。「こういう人いるいる」という部分がナマのまま放り込まれているから、フィクションとして救いがない。だから面白くない。それはそれで褒め言葉です。面白いばかりが文学じゃない。面白くないことが最大のメッセージ。

「サブカルは愛しているけれども、サブカルクソ野郎は滅べ」

 

 日頃思っていることを改めて実感しました、まる。